エゴならちょうだい

 すっかり頭から消え去っていた記憶が今私の脳をぐるぐるとまわっている。むしろよく今日まで思い出さずにこれたものだ。金髪が揺れる。そちらから声をかけてきておいて、ふてくされたような顔をするのはやめてほしい。
 全くとは言わないが、あれから何年も経っているのに一度で分かる程度に変化のない男だった。何年もと言ったってたぶん十年は確実に前だ。下手したら二十年近い。しかし、この男と違い容姿には変化があったであろう私によく気づけたものだなと思う。鞄の中でケータイが呼んでいるのが聞こえ、我に返る。男と目が合った。

「出ないの?」
「出るよ」

 てっきり出たらいけないものだと思ったが、違うらしい。やはりどうしても過去のイメージに引きずられてしまう。
 電話は案の定夫からのものだった。急に仕事が入ったので家にはいない。帰るのは日が変わる頃。電話を切ると違和感を覚える間もなくケータイを奪い取られる。する、と。自然に。いつの間にか彼の手の中にあるケータイを私は見つめることしかできない。

「あのさ」
「うん」
「結婚してるの?」
「してるよ」
「今の電話旦那だよね? なんだって?」
「今日遅くなるって」
「じゃあ家行っていい?」
「いいけど、子供いるよ」
「知ってる」
「そう」

 少しだけ、男の瞬きが重くなる。温くなったコーヒーで喉を潤し、カップをソーサーに戻す。同じところに口をつけるので、口紅が薄く重ねられている。子供がいると知っていることくらい分かっている。名前が変わったから私だと分からなかっただけなのだろう。私の身の周りのことは全て把握しているはずだ。

「知ってるよ」

 呟かれた言葉に顔を上げる。向かいの席から手が伸びてきて、テーブルに乗せていた手に重ねられた。でも、と続ける間、男は目をそらさない。

「お前知ってたの?」
「仕事だから」
「俺を誘導したのか」
「うん」
「自分が死ぬかもしれないのに」
「うん」
「馬鹿じゃないの?」
「仕事だから」
「殺すよ」
「いいよ」
「なんで?」

 はっきりと不快感を顔に出し、男は私の手をきちんと握った。知らなかったことだってある。たとえば、あなたとあの子が同一人物であること。そして知りたくなかったことも、もちろん、たくさん。

って呼ぶけど」
「うん」
「本当は旦那と子供だけが目当てって言ったらどうすんの?」
「そうなの?」
「違うけど、どうするの」
「仕事に失敗したら結局殺されるから、どうもしない」
「それ旦那にだろ?」
「旦那の上」
なら縁を切ることぐらいできるんじゃないの」
「戸籍なくなったら困るし」
「戸籍だって用意できるだろ」
「どうしてそんなに逃がそうとするの?」

 自分の手が冷えていることに意識が向く。男の手も同様に冷たく、しかし私よりは温かかった。再び視線を上げれば口元に笑みを貼りつける弟。弟、と呼んでもいい存在ではないのだけれど、本当は。ああ胸が締め付けられるようだ。この男は私の人生を知っている。だから……逃がそうとするのはある意味で当然のことである。そして、嫌な笑みを貼りつけるのも。

「むかつくから」
「何が?」
「お前が勝手に結婚とかして、平然と生きてるのが」
「変わってないね」
「大事なの?」
「何も」
「じゃ決まり。荷物運ぶのくらい手伝ってあげるよ」

 男はようやく私の手を解放した。満足そうに笑っているが、結局何もかもがうつろだ。どうやら私は戻るべくしてこの男の下へ戻るらしい。
 ケータイは返されない。