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ドアを開けて、そこに立っていた男の姿に息が詰まった。何故確認しなかったのだろう。そんな私にはお構いなしといった様子で男は家に入り、真っ直ぐリビングへと歩いていく。
「待って」
匂いが記憶を呼び起こす。背後でドアの閉まる音がする。再び目が合って、それでも、男は何も言わない。どうして? 今になって私の前に現れるなんて。ああしかし子供のいない時でよかったと考える程度に頭は冷静だ。もう私は何もかもを捨てられるほど若くはない。律儀に立ち止まる男から一度目をそらし、鍵を閉めた。
午後一時過ぎ。一時間もすれば子供が帰ってきてしまう。まああの子には何も理解できないだろうけれど……それが夫に伝わってはまずい。そして子供に口止めしては不思議に思われるだろう。さっさと帰さなければ。
「コーヒーと紅茶、どっちがいい」
「いらねえ」
「……座ったら?」
「ああ」
やっと返事があった。そのことに安心して私も椅子にかける。乱暴に椅子を引き、そこに座った男は未だ部屋を見回している。
何から話したものか。まさかここを知られるとは思わなかったからなんの心構えもしていなかった。よく考えたら彼らは私とは違う世界の住人であり、常識など通じないのだけれど。
「わかんねえな」
「何が?」
「お前があそこから出て、やりたかったことがこれかよ」
「……分からないでしょうね」
どれだけ必死でここまでたどり着いたのか。普通を手に入れることが、どれだけ、私たちにとって大変か。理解しているからこそその道を選ばなかったのかもしれない。けれど私には彼らのことは分からないし、分かる日が来るとも思わない。
用意された幸せに縋るなんて惨めだと思ったこともあった。でもこれしかなかったのだ。いかに生まれもったものを利用して立場を手に入れるかが私にとって一番重要なことだった。
「どうして来たの」
今さら、今になって、こんな時に、様々な言葉を付け足そうとして引っ込める。言ってはいけない。責めるようなことは絶対に。男がこちらに顔を向け、舌打ちをした。
「馬鹿か、てめえは」
「どういう意味よ」
「今のお前に言えることなんざ一つもねえ」
「……なんで?」
「なんでだあ?」
強い視線に思わず息を飲む。怒っている。いや、それだけではない。怒っているだけならその感情に任せてぶちまけるはずだ。……私の期待の域を出ないで。目をそらす。再びの舌打ちと、ため息。
「お前は分からねえフリだけは上手かったからな」
「……」
「言いたいことがあるならはっきり言えって、何度も言っただろうが。それも忘れたのか?」
「……私はもう会いたくなかったのに。なんで」
なんで、戻れる時に来てくれなかったの? 言ってしまえば終わりだ。何が終わるのかは分からない、分からないフリをする。しまい込む。手のひらで腕をさする。忘れてなどいない。思い返せばあの鮮烈な日々はまぶたを焦がす。けれどその記憶は確実に美化されたものであって、思い出してはいけないのだ。今の私には必要のないものだから。そうやって仕舞うことができるようになったというのに。
「そろそろ潮時だと思って来てやったってのに」
男が呟く。潮時。そうか、だから怒りだけではないのか。じっと向かいに座る男の横顔を見つめる。あれから何年も経ったのにほとんど変わらない顔。
「俺に期待してんならそれなりの態度をとれよ」
「……無理よ。ここを見れば分かるでしょう」
「お前はそういうやつだよな。だから式にも乗り込まないでやったんだ」
「式って……まさか、乗り込む予定だったの?」
「そこまですりゃさすがに分かるだろうと思って。けどお前のドレス姿見て気が変わった。で、タイミング見計らってるうちに随分経っちまった。お前ももう気が済んだだろ」
「……気が済むって何よ」
「分かんねえフリしてるうちは駄目だな」
この幸せにケリをつけろと言いたいのか。幸せ。これを、幸せと呼ぶのなら、だけれど。男が立ち上がり、玄関に向かう。足音が私の心を揺らす。でも私には子供もいるのだ。そんなに、身軽じゃない。部屋から抜け出すことができたあの頃みたいに。数秒置いて彼を追いかける。その背中に、仕舞っていたものが溢れだす。駄目だ。分かっている。だから私は何も言えないのだ。
「諦めろよ。いい加減」
「そうね。……ほんとに」
涙も出ない。一人の女と一人の男であった頃に戻れたなら、悲劇のヒロインになれるだろうか?