その呪い
その日ついに私は家を出た。外を歩くのは随分と久しぶりだった。膝が震えている。見つかったらどうしよう。だって、でも、あの人は私を失いたくないと言っていた。……私が本当に恐れているのはなんだ?
いつか死んでしまうと思った。絶対にこの人を捨てることはできないと思っていたけれど、ある時ふっと、もしかしてこの人にとって私は必要のないもので、死んでもいいと思っているからこんなことをするんじゃないかという疑念が浮かんだのだ。
そんなわけない。愛してくれているからだ。私が悪いのだ。いくらそう言い聞かせてもそれから彼を信じることができなくなった。それが一番私を追い込んだ事実だった。
あの頃は楽しかったな。過去のことが輝いて見える時は……どこかで聞いた歌詞が思い浮かぶ。新しいどこかへ行く時なのだ。きっと。
私は昔とても強い女の子に守られていた。あの子がどうして私と一緒にいてくれたのか今となっては分からない。同情なんかじゃないと思う。思いたい。だって、あそこには私みたいな子供が大勢いて、彼女もその一人だったのだから。ああ今の私は確実に彼女に同情している。
今何をしているのだろう。私は大人になる前に売られたが彼女も、あるいは。
「マチちゃん……」
馬鹿な女は涙を流すことができる。見上げると白というよりは灰に包まれた空、いっそ雨でも降ってくれればいいのにと思う。
知らないところに行きたかった。私はひたすら歩いた。空腹感すら懐かしかった。このまま食べずにいたらいつか死ねるかもしれない。私は思ったよりも絶望していて、でもその絶望のおかげで生きているとも言えた。
日が暮れそうだ。前から人が歩いてきて私は顔を伏せた。上着のポケットに手を入れると、リボンのついた鈴のストラップが出てきた。もう輝きは疾うに失われているそれは、確かに大事だと分かるし見覚えのあるものだったが、どうして大事だったのかは思い出せない。ただこの上着を最後に着たのはいつだったろうと考える。
その時急に強い力で腕を引かれた。よろめきながら顔を見ればつり目の女の子。
「それ……どこで」
どうやら鈴のストラップのことを言っているらしい。もう一度それに目をやるがやはりどこで手に入れたのかは分からない。
「覚えてません……でも、ずっと大事にしてて」
「まさかあんた、か?」
「……え?」
顔を上げる。懐かしい響きだった。なんて名、聞いたのはいつ以来だろう。それを知っているということはつまり……。そこでようやく合点がいく。ピンクの髪につり目の美人。私の腕を掴んでいた力が緩んでいく。何を言っていいのか分からずに私はただ彼女を見つめた。
ほとんど足音を立てずに歩く彼女の後ろをついていく。来な、という一言の他には何もない。けれどこの人を信じてもいいのだと思える。それは過去がなくてもそうだっただろう。
マチちゃんの家は殺風景で寝るためにある場所だと分かった。部屋に入ると彼女は電気をつけ、私を見る。それから黙ったまま、いきなり私の上着の袖をめくった。わずかに眉をひそめた彼女はゆっくりと上着を元に戻し、手を離す。
「ここは安全だ」
「え……」
「あたしはいないことも多いけど。あんたのことは明日までになんとかするよ」
「……なんで?」
「別に。座って」
ベッドを指され、とりあえずそこに腰掛けると彼女は向こうの暗がりに行った。すぐに電気がついて、台所を浮かび上がらせる。
手のひらを見つめる。ああ、指輪をつけたまま出てきてしまった。こんなもの……。ぎゅっと手を握ればそれが指に食い込む。目を閉じる。向こうから、かた、と音がする。
「」
「ありがとう」
マグカップを受け取り冷えた指先に熱すぎるほどのそれを眺める。マチちゃんが隣に座った。コーヒーを一口飲む。
沈黙は破られることがない。そうしてちびちびコーヒーを飲んでいると彼女の手が左手に触れた。そちらに目をやる。私よりも温かく厚い手のひら。自然な動きだった。する、と銀の輪がほどかれていく。以前よりも痩せた指からそれは簡単に抜けてしまう。
「馬鹿」
マチちゃんの手が離れていく。何に対する言葉なのか、私には分からない。一度顔を上げるが反対に彼女の顔は伏せられていて、私はまたコーヒーを一口すする。