愛ゆえ裂いて

 何が間違っていたと言うんだろう。今までの何が。私の頭に流れるのは昔見た映画のワンシーンで、それは耳に残っているいつかのジャズに引き立てられている。落ち着いてなどいない。けれど落ち着こうとして、私は冷静な想像を進めていく。
 死んだらどうなるのだろうという疑問は昔からあった。しかしそれは、私がどこにいくのかとかいう抽象的なことではなく、私のいなくなった世界で誰が嘆きどのくらいで忘れるのかということ。人が死ぬことに慣れてはいけないと思っていた。でも、私の周りには死が溢れていたし、慣れるなという方が無理だった。そうしていつの間にか私の夫の地位は一番上まで来て、私だってそれにふさわしい女のつもりだった。

「うそだ……」

 ようやく出てきたのはそんな情けないセリフ。ジャズが右耳だけを支配している。過信していたのだろう、どいつもこいつも私も彼も。私の呟きに反応し、血まみれの男がこちらを向いた。思わず後ずさろうとするが、足がうまく動いてくれずに結局尻もちをつく。お願い。早く戻ってきて。震える左手をにぎりしめ、夫の無事を祈る。
 あの人は強い。でも目の前の男は格が違う。私だってあの人の妻として無駄に日々を過ごしてきたわけではない、だからこそ、はっきりと違いが分かる。
 男は私を見てため息を吐いた。近寄ってくる気配はない。

「なにきゃーきゃー言ってんだ、この野郎」
!」
「あなた待って、来ないで……お願い……!」

 戻ってきてすぐ異常に気付いたのだろう、夫が部屋に飛び込んでくる。戻ってきてほしかった。守ってほしかった。でも、無理だ。この男には敵わない。息をのむ。男は武器に手をかけたまま、乾いた笑いを漏らした。

「操作ってのは、馬鹿にできねえな……」

 小さな呟きが耳に入るも、意味を理解することはできない。操作。考えようとすると夫がこちらを見た。あんなに焦った顔の彼は見たことがなかった。瞳が揺れている。ごめん。男のものよりも小さな声でそう言う。マフィア同士の抗争に巻き込まれていたのだ。もう随分と疲労がたまっているはず。悔しい。私の存在が足かせになってしまってはいけないのに! 
 言いたいことが何も口から出てこなくて、私はただ、もどかしさに唇を噛んだ。やめて。その人だけは。



 男が不意に私の名を呼んだ。まるで……まるで、なんだ?

「目閉じてろ。……怖いんだろ?」
「え、」
「閉じろ!」
……!」

 二人の声が重なる。訳も分からず顔を伏せ、目を閉じる。ごめん、と言おうとした夫の声は途中で嫌な音に遮られる。どうして。どうして? 何も、分からなかった。この男がここに来た理由も、夫が謝る理由も、男に名を呼ばれた瞬間の感情も。静寂の中、心臓の音が耳に響いている。ジャズはいつの間にか消えていた。

「ったくよお」

 男の声に、恐る恐る目を開ける。きっと見たくないものがあるであろう方へは顔を向けることはできず、視界の手のひらを見つめる。白く、震えた手。左手は赤くなってしまっている。私はこんなに弱かっただろうか。本当は……。

「なあ」
「……はい」
「もう一度目閉じてくれ」
「なん……で」
「お前には見せたくねえ」

 表情が見えない分、声の悲痛さがひどく胸に響く。なんでこの人がこんなにつらそうなんだ? 分からないまま言われた通り目を閉じると近づいてくる足音。怖い。ああ殺されるんだ。しかし目の前まで来た気配はどうやらしゃがんだようだった。すると唐突に、手のひらに何かが触れる。……男の手だ。熱い。硬い指だ、と思う。目を開けてしまいたい。迷うように手の甲を滑った指先は薬指で止まる。その時遠くから誰かの名前を呼ぶ声が聞こえた。指が離れて、数秒沈黙を保った後、男は勢いよく立ち上がる。

「ここだ!」

 仲間に対してだろうか。向こうの方向へそう叫ぶ。ぶっきらぼうな物言いは先ほどから何度か耳にしていたものだった。すぐに何人かが廊下を走ってくる音がして、そのまま廊下で男と話し始めた。声が小さくてあまり聞き取れない。

?」
「は、い」
「うわ、ほんとだ。どうすんの?」
「運ぶ」
「言うと思った……」
「あたしたち先に行ってるから」
「ああ」

 男の仲間らしい男女が屋敷の出口に歩いていくのが分かる。男が再びこちらに歩いてきて、私の後頭部に触れた。頭を下げるように押さえられて一度手が離れる、一瞬だった。