できない
まだ若いんだからそんなに急がなくてもいいのに。
化粧をするために鏡の前に座ると、過去何度も言われた言葉が唐突に頭に浮かぶ。あれから半年、私はうまくやれているはずだった。鏡の中の女は確かに若く、肌のはりも失われてはいない。微笑んでみれば昔よりは衰えたものの、今はどこかで仕事をしているであろう男が好きだという愛嬌のある顔になる。力を抜き、今度こそ下地を手に取った。
着飾ることに意味があると知ったのは結婚してからだった。どれだけ未熟で幼かったか分からない。私の生きていた世界においては仕事のためだけに必要なものだった、だから私は普段女のようにすることを嫌っていたし、それを間違いだったとは思わない。ただ、自分のためのそれを知らなかったせいで、今でも着飾ろうとするとどうしても仕事前の心持ちになってしまう。
強い女が好きだ、と言われた。確かに私は強い女だった。それはそこらの男たちよりもずっと、そこらの男とは試験の時に出会った彼や、闘技場で倒した人間、それからもちろん、仕事で手にかけた人間のこと。
普通の女みたいに……普通よりは、したたかに見えるように、私は歩く。何もかもがうまくいっているという顔をして。
待ち合わせ場所には既に彼がいた。あの長身は街中では目立つ。ああ行きたくないと思うのを抑え、真っ直ぐにそちらへ歩いていく。背筋を伸ばせ。トレンチのポケットに入っている家の鍵を握りしめる。馬鹿馬鹿しくて、笑ってしまう。
「レオリオ」
「! 久しぶりだな。なんか別人みてえだ」
「髪のせいでしょ。行きましょう」
「おう」
会いたいと言われた時、私には彼に会う勇気がなかった。もちろんすぐにでも会いたかったのだが、彼との再会が結婚生活を脅かすものに思えて仕方がなかったのだ。言い訳を重ね、なんだかんだ三か月ほど経ってしまった。
適当なレストランに入り手早く注文を済ませる。夫はこの行為を咎めたりしない。そもそも目の前の彼とは何もあり得ない。
「仕事、どうなんだ?」
「ええ、順調よ。ごめんなさいね、なかなか時間作れなくて」
「そりゃいいけど、また無茶な働き方してんじゃねえだろうな」
「ふふ。変わってないわね」
「俺の患者になってもらっちゃ困るんだよ」
「そういえばあの子たちとは会ってるの?」
「何か月か前に会ったきりだ。あいつらも色々あるからな」
「そう。元気にやっているといいけど」
「なんだお前、心配してるのか?」
「あの子たちこそ、無茶でしょう。心配もするわよ」
「まーそりゃそうだ」
運ばれてきた酒に口をつける。昼間から飲むことが、あの人の嫌う行為であることを思い出す。本人は嫌いだと自覚していないかもしれないけれど。
勉強は一段落したらしい。もうあれから一年も経つのか、と思う。私だけが、随分と変わってしまった。しかし本質は変わらない。そのことに焦りを覚える。
「ああ、、遅くなっちまったが結婚おめでとう」
「あら、ありがとう。もう半年経っちゃったけどね」
「そもそもお前、そんな大事な報告メールで済ませんなよ。忙しいのは分かるけどな」
「何度も聞いたわ」
だってあなたに面と向かって言える気がしなかったんだもの。左手を見れば当たり前のように私を締め付ける輪が光っている。大事な仲間のおめでたいことをその時に全力で祝いたかったのだろう。そういう男なのだ。そういう男の、特別には、なれなかった。それだけ。
「お前……なんかあったのか?」
「え? そりゃ、色々あったわよ」
「そうじゃねえよ」
「なによ、なんかって」
「……元気ねえっつーか……」
「そういう時もあるわ。これでも人間だから」
「うまくいってねえのかよ」
「うまくいってるわよ」
何もかも。それが自分へ言い聞かせているだけの空っぽな言葉だということくらい、気づかれていただろう。馬鹿馬鹿しいと再び思う。気づいてほしくて、でもそうしてはいけなかったから、私は視線をさまよわせたりしなかった。それでも……。
彼に、こちらへ踏み込んでくる理由はない。そして踏み込まれたところで私が嘘を吐くことも分かっているはずだ。店内の照明が指輪に反射して、眩しい。
「ゴンが驚いてた」
「え?」
「結婚したって言ってなかったんだな」
「さあ、忘れたわ」
「なんで俺には言ったんだ」
「何が言いたいの?」
「……お前の言葉を借りて言うなら、言う必要のねえことだ」
「大人みたいになっちゃって」
「茶化すな、馬鹿」
「ふふ。馬鹿なのよ」
「……そうかもな」
手をつけていなかったサラダを引き寄せる。店員が来て、メインディッシュを置いていく。もしかしたらそうだったのかもしれない、けれどそのことは私を確実に絶望させた。嬉しいはずなのに。何に絶望しているのか私には分からない。……考える必要のないことだ。