果て
理解できない事象というのはこの世の中様々存在していて、それは例えば私の二倍もあるのではないかと思えるような大男が標準サイズの子供に負けていることだったり、そんな子供が何人もいることだったり、しかし受付の前ではただの子供であることだったりする。ただ働き始めて一か月、仕事に慣れてきた私の前には別の問題があった。
「全然分かんない」
「え、そうですか?」
「ぱっとしないじゃない。ここだったら他にもいるでしょ」
「ぱっとしない……と言えばそうですけど」
休憩の最中に先輩と話すことはもっぱらその「問題」についてだった。先輩は煙草の空き箱を潰したりビニールを破ったりしている。まあ確かにあの人は普通だ、むしろこんなところにあんな人がいるのがおかしいのではないかと思うほどに。じゃああの人の何に私は心惹かれたのだろう。考えてもよく分からないのだからこれは一目惚れというやつらしかった。
しかし風の噂という名の情報網によればあの人は件の子供たちの師匠であるらしい。つまりいわゆる普通の人ではない。先輩のため息で現実に引き戻される。
「まーでもさー、銀髪の方の子供」
「ああ、キルア様」
「あれが好きってよりはマシよね」
「……子供じゃないですか」
「あんたの同期、かっこいいって言ってるのよ、最近ずっと」
「かっこいいのは分かりますよ。それ、でもファンですよね?」
「さあ。あたしとしては問題さえ起こさないでくれればいいわ」
「問題……」
「じゃああたし戻るから。後でね」
「あ、はい。お疲れ様です」
煙草の空き箱を見事ゴミ箱に放り込んで、先輩は闘技場に戻っていく。腕時計を見るとまだ三十分はある。そこそこ人気のある人のバトルが組まれているせいか、出てすぐの広場は人通りが少ない。中で観戦してもいいがホールは混んでいるだろう。アイスでも食べるか、と思い立ち上がると、向かいから見覚えのある銀髪が走ってきた。
「あ、お姉さん」
「こんにちは、キルア様」
「ウイングさんならあっちにいるぜ」
「え?」
「じゃ、売店のお姉さんによろしく!」
「ちょ、ちょっと」
言うだけ言ってさっさと中に戻ってしまった子供にため息を吐く。口が軽いにもほどがあるぞ、売店のお姉さん。とにかく真偽を確かめるために子供に言われた方を見ると、確かに広場の向こうを彼が歩いている。宿に戻るのだろうか。ああ、びっくりした。びっくりした、と思う。けれどあそこにいると教えてもらったところで、私はどうすればいいのだろう。休憩はあと二十五分。これが最後の、最初で最後のチャンスかもしれない。この世の中、理解できない事象が多すぎる。それは例えば受付でしか話したことのない人に恋をしていることだったり、見かけただけで馬鹿みたいにどきどきしていることだ。私は財布と帽子を手提げに突っ込み、走り出した。
追いついて、どうすればいいのかなど分からないままに口を開く。音で気づいたのだろう、彼が振り向く。
「あの……」
「あなたは……受付の。さん」
「あ……はい、です」
覚えていたのか。いや、覚えられているのは態度で分かっていた。息が整わない。鍛え直した方がいいななんて思う。
「ええと……あの、ウイング様で、す、よね」
「はい、そうですが」
「ごめんなさい!」
「え、ええ?」
「わたし……」
……その時それが目に入ったのは本当に偶然だったのだろう。偶然だったと思いたい。一瞬で、全てが終わるのを感じた。だってそんな、結婚してるなんて。
「け……ご、ご結婚されてるんですね」
「え? ああ、」
「奥様は……」
どんな人なのか、何年経っているのか、子供はいるのか、色々な質問を飲み込んで、きっと何も理解できていないのであろうその人を見る。そりゃそうか。こんな人が、結婚もできないとは思えない。
「……幸せでしょうね」
返答を待たずに私は来た道を駆け戻った。そもそもはっきりと好きだったわけではない、どうこうなりたいと思っていたわけでも。淡い、馬鹿みたいに単純な、恋だったのだ。失ったところで私の何かが変わることはない、のだ。でも痛いものは痛い。
恋なんて、するもんじゃないな。先輩に煙草をもらおう、と決心する。