光の膜
今日は絶対に写真を撮らないと決めてから、何かの時のために財布と携帯だけをポケットに入れて、私は宿を出た。曇ってはいるが雨は降らなさそうだ。とりあえず軽食を買ったら葉巻屋に行こう。仕事で来ているとは言え、気楽に行動することを忘れてしまえば意味がないのだ。
素直に景色を美しいと思うことができなくなったと言えばいいだろうか。私はそのことを大変深刻な病だと思った。写真は撮っている人間の内面が表れると言われているが、私は特にその傾向が強いらしかった。撮った時完全に世界を素晴らしいと思えたものは多くの人に称賛されていたし、そうなのだろう。初めにそれを言い当てた男の目に狂いはなかったと言える。
美しいものを撮りたかったはずだ。それが今ではカメラを向けながら美しいかどうかを確認してしまう。一番の問題は、私自身がそのことを重くとらえているということ。
葉を重ねる老人の指は、皮膚が硬くなり、茶色くてひび割れている。何日か前にここを見つけて以来、洒落た店などに行く必要もないなと思い直し、毎日訪れている。
「ハイ、おじさん」
「おー、あー、おねいちゃん」
「お腹は空いてる?」
「なんやい」
ちょうど端を切り終わった老人に食べ物の入った袋を渡すと、無愛想に受け取って中身を確認した後、出来たばかりの葉巻を私に差し出した。ついでに机にあったマッチを手にとった時、ふと人の気配を感じ、老人からそちらへ視線を向ける。
男だ。大柄の、サングラスをかけた男。浅黒い肌を見てここの波に乗るために来たのだろうかと思ったが、私の視線に気づいてこちらを見たのは、見知った顔だった。
「モラウさん?」
口をついて出た名前に自分でも確信が持てない。数か月前に会ったばかりだが、こんな辺鄙なところで知り合いに会うとは思わなかったからだ。しかし男も驚いた顔をしたので、確信する。
「か?」
「お久しぶりです」
「なるほど、ここを選ぶか」
「あなたこそ」
男の向かいの椅子に座り、マッチを擦って葉巻に着火する。最近あまりゆっくり話す機会も持てずにいたので、奇妙な心地悪さと喜びが同時に存在していた。前にちゃんと話した時のことを思えばそれも当然のことだった。ゆっくりと煙を吐き出した私は、木を打ち付けただけの簡素な机に肘をつき、市場に目をやる。
「お前が吸ってるのは、何度見ても慣れねえ」
「もう五年くらいですよ。吸い始めてから」
「ガキの頃の印象が強くてなあ」
「やめてください」
いつまで経っても私を子供扱いするこの人が嫌いだ。親戚にはそろそろ結婚だなんだと言われ始めているのに。何回付き合っても男性とうまくいくことのなかった私に、その手の話は意味がないと理解できないのだろうか。
「それで、調子はどうだ」
余計なことを考えていると男が言った。色々なことが重なって参っていたあの時、会ったのがこの人でよかったのかもしれない。燃えていく葉を見つめながら口を開く。
「リハビリを兼ねてこの街に来たって感じです。前みたいに撮れるわけじゃないですけど」
「整理はついたみてえだな」
「ええ、おかげさまで」
「お前、俺の仕事の手伝いをする気はねえか?」
「……モラウさんの?」
「近いうち、協会関係で大きな仕事が入ってるんだが、その前に自分のことをやっておきたくてな」
「でも、モラウさんって基本単独ですよね」
「そうでもねえよ。調査依頼があれば何人か連れていったりもするしな」
もしかして、また気を遣われているのだろうか。いつから吸っていたのか、最後の一吸いの後、彼は吸殻のたまった灰皿にそれを押し付けた。
「そんな難しく考えるな。お前と海でも眺めてえって話だ」
「仕事じゃないじゃないですか……」
「ははは、ま、お前が街を出るまでに決めればいいさ」
「モラウさんはいつまでいるんですか?」
「天気次第だな。お前は?」
「明後日には……と思ってましたけど」
冷静に考えたら、実力差があるのに仕事の誘いをくれるわけがない。それに私がしばらく一般人として働いていることをこの人は知っている。しかし私と海を見たいというのもよく分からないし、やはり気を遣ってくれたのだろう。明るくなった気がして市場の方を見ると、日が出てきたらしいと分かる。
「お、晴れてきたな」
嬉しそうな声を上げた男が、過去私の写真を好きだと言ってくれたことを思い出す。私がいいと思わなかったものでも、評価されなかったものでも、好きだからもっと見たいと。もしかしたらこの人にそう言われるために、こんな状態でも撮り続けているのかもしれないなとぼんやり考える。
「明日もここ来ます?」
「なんだ、お誘いか?」
「もう」
「そう拗ねるなよ。じゃ、また明日な」
「はい、また明日」
彼は片手を上げ、軽く伸びをしながら去っていった。あの人への感情がただの尊敬でなかったらどうしようと思ったことがある。そういう時私には相手がいたし、他の男に対しそんな風に思うのはよくないことだった、だから考えないようにしていた。すっかり伸びた灰を灰皿の縁で落とす。嫌だな。ただのいい人だと思っていたかったのにな、と思う。私は最後まで吸わずに吸殻の山で揉み消し、ため息を吐きながら立ち上がった。明日の約束なんてしなければよかった。
title by alkalism/170822
リク:モラウ、相手を好きだと気付けない恋愛下手な二十六歳