わたしの心臓を寝床にした

 私たちの中で気配を消すのがあまり得意ではないやつというのがいる。それはもちろんとんでもなく上手なやつに比べたら下手なだけで、というか私が敏感すぎるのも問題なのかもしれないけれど、まあとにかく、今この瞬間、あいつの気配に気づかないというのは無理な話だった。頭のどうにかなりそうな薬物臭さの中、私はきらきらと輝く液体を塗っている。声をかけられる距離にいてくれればどうとでもなるのだけれど、生憎男が着地したのは私の頭上十メートルほど、つまりこの家の屋根の上である。左手の小指を塗り終え、筆を置いた。一体何がしたいのだろう。まあ今は手が離せないから、乾ききるまではそのままでいてほしいけれど。
 なんとなく、屋根の上の男とは仲良くしていた。仲良く。居心地の悪い表現だがたぶん他のやつらにはそう思われているだろう。仲が良いというよりはセットと言った方が近いかもしれない。私もあいつも、まあまあ喧嘩っ早い。
 流れっぱなしのテレビを眺めながら、乾かすために左の手首を揺らす。そろそろ右手に移るかと思ったところで、男の気配が移動して、庭と反対側の窓が開いた。猫を飼っている家には猫用の出入り口というのがあるらしい。

「くっせ」
「でしょうね」
「何やってんだお前」
「こっちのセリフ。十分も屋根で何してたの?」
「てめえには関係ねえ」
「私の家」
「うるせえなあ」
「は? 何が?」
「だからてめえに関係ねえっつーの」
「だから私の家だっつってんだろ」
「チッしつけえな」
「今日拗ねるの早くない?」
「んだと?」

 飽きたので無視して再びボトルを手に取る。これが私にとって大切な作業だということを何度言っても理解しない。呪詛なのだ。鮮やかな指先でないと私の思考は狂ってしまう。こいつとのやり取りは嫌いではないが、今は面倒臭さが先に立っている。男は私の様子を数秒見た後、キッチンへ向かった。レッドの広がりをじいと見つめる。もう何年もこうして呪いをかけ続けているのでずれるということはない。中指に差し掛かったあたりで男が戻ってくる。そういえば大した食べ物はなかったなと思う。そして男はそのままソファーまでやってきて、私の隣に座った。

「揺らさないで」
「揺れてねえだろ。いつ終わんだよそれ」
「あんたに関係ないでしょ」
「めんどくせー女」
「何? 私あんたのストレス発散機じゃないんだけど」
「知ってるっつーの」
「じゃあ邪魔をするな」
「してねえだろうが」
「いい加減にしろよ」

 絶対に手元がぶれることはあってはいけない。中指が終わる。呪いの途中でなければ殺していたかもしれないと思ってから、そもそも呪いの途中でなければこの怒りは湧かなかったなと思い直す。リモコン一つ挟んだ隣にいる態度も図体も大きい男。ボトルの縁で液体を少し落とし、薬指の付け根に筆を当てた。悪気がないことくらい分かっている。頭が悪くて空気が読めないだけだ。でもだからと言って私の呪いを邪魔していい理由にはならない。

「わざわざ来てやったのに」

 あと一塗りで薬指が終わるというのに、不満気な呟きが聞こえて筆を動かす手を一瞬止める。すぐにそれを終えてから、私は顔を上げた。だらりと投げ出された足が視界に入る。別に不自然な言葉ではなかったのに、普段でもそのくらい偉そうな物言いだっていうのに、どうしてだろう。

「頼んでないって言ったら拗ねる?」
「拗ねねえっつーの、しつけえんだよマジ」
「あんた時々子供みたいね」
「ああ? どこが?」
「全部」
「あ? 何笑ってんだてめえ」
「もう終わるから待って」

 思いきり嫌そうな顔をした男から小指に目を戻す。男の視線を感じる。乾くまで待つのは無理そうだ。わざとではないのだけれど(本当に)やたらゆっくりと塗ってしまって、私も意地が悪いなと思う。全ての爪が赤くなったところで男の手が伸びてきて、無理やり後ろから抱きかかえるように体を向きを変えられた。

「ちょっと、蓋閉めるから」
「わざとだろ」
「自分でも驚いたんだけど、わざとじゃない」
「はあ? わけわかんねえこと言ってんな」

 どうにか腕を伸ばして蓋を閉め、爪がどこかに触れないように両手を前に突き出す。背後から男の体重がかかって息苦しい。

「甘えただなあ」
「気色悪い言い方すんな」
「言い逃れできないでしょ」
「黙れっつってんだよ」

 タイミングが悪かっただけなのだろうし、邪魔をしてきたことは許してやろう。足を完全にソファーに上げると腕の力が少し緩んで、その代わりのように頭を掴まれる。ムードも何もない。やっぱりため息が漏れるけれど、それもすぐ、飲み込まれてしまう。



title by alkalism/170812
リク:たまにはとデレてくるフィンクスとそれをうざったく感じる主人公