深度も見えない
空腹だ。とっくに昼食の時間を過ぎた午後四時、慌ただしさの満ちたオフィスで、目の前のモニターを見つめる。頭痛。眼精疲労。栄養失調。睡眠不足。それは原因の方だ。いよいよなんの情報も頭に入ってこなくなってしまった気がする。動く度何かを締め付けるような音のするチェアの肘置きに体重をかけ、そこから体を離す。立ち上がってから近くの席で真面目に仕事をする部下を見ると、そいつは不思議そうにこちらを見た。
「どうしました?」
「帰る」
「えっ?」
「疲れた」
「ちょ、え、待ってください」
「ハンターたるもの休める時に休むべし」
「今は休める時じゃありません! ええ! ちょっとリーダー!」
おかしいのだ、どいつもこいつも。会長のことは尊敬していたけれど、今私たちが忙しいのはその後継者を決める選挙のせいだ。やってられるか。なんだか突然全てを辞める決心がついて(それはもちろん、勇気などではない)、私は鞄を持ち上げた。部下が投げてくる縄のようなものを避けつつ出口に向かう。オーラなんて飛ばしている余裕があるなら、きっと私の分の仕事もやってくれるはずだ。
私のような適当な人間が多い職場なので、残るだけ馬鹿らしかった。デスクワークに向いていないのは自分が一番よく分かっていた、それでもやっていたのは、豆の負担を減らすため。あいつも今は上のお世話で大変そうだったなあと思い出す。協会のビルを出ると思った以上の暑さにくらくらした。熱烈アタック、勘弁してくれ。ケータイの通知は三十五件。何日も確認していないけれどどうせほぼ部下だ。それなら現場で解決している。ああもうこれ捨てたい。そう思うのは何度目だろう。けれどいつもぎりぎり残っている理性と責任感のおかげで、通知を消すに留めるのだ。
家に着いて靴を脱ぎ、服の散乱したベッドに倒れ込む。化粧落とさないと、スーツもしわになる、仕事はたぶん大丈夫、そういえば明日は朝からお偉いさんとの会合、お腹空いた、このまま死ぬのだけは嫌だ、考えがちっともまとまらない。心配ぐらいされたい。あの人がいたらなあ。ここに住んでくれないかな。無理だな、弟子がいるから……。
仕事行かなきゃ。勢いよく体を起こしてから、室内の暗さに違和感を覚える。夜だ。一体私はいつ寝たのだろう。顔に触ってみて、化粧も落とさず寝落ちたのだと気付く。そうだ、仕事をさぼって帰ってきたんだった。とにかくシャワーを浴びようと思いベッドを降りる。
別にそんなに頑張らなくてもいいのだ。私は室長だけれど、部下は概ね優秀だし、仕事はきちんと割り振っている。でも来年もハンター試験は予定通り行わなければならないし、その場合私も試験官として参加することになる。その内容を考える必要もある、それに選挙のことはほとんど上が決めるので、いつ何があるか分からない。実際、それに振り回されるのが一番のストレスだった。
シャワーから出てケータイを見るとまた通知がたくさん溜まっていた。仕方ないので久方ぶりにそれを開き、返信の必要なものだけ目を通す。部下よ、私は疲れすぎてどうにかしていたのだ。明日の会合には出席するからそう怒らないでくれ。かわいくて笑ってしまう。
そうして見ているうち、随分見ていなかった名前が見えて、心臓が大きく跳ねる。お久しぶりです。仕事はうまく行っているかな。ああ、湿った肌がじわりと熱を帯び、私は思わずそこから目を逸らした。何を緊張しているのだろう。久しぶりと言ったって、メール自体は一か月ほど前にしたのに。緊張とは違う。今、このタイミングで、これを読めたことが純粋に嬉しいのだ。メールが来たのは昨日の夜。ここ数か月お互いに忙しく、会えていなかったのだが、向こうは落ち着いたらしい。動悸が治まらないまま連絡先の中から名前を探し、迷うことなくその番号を押す。
『もしもし』
「こんばんは。いきなりすみません」
『いえ、大丈夫ですよ』
「メール、今見ました。私も一段落したところです」
『君のことだから、頑張りすぎているんでしょう』
「部下が優秀なので平気です」
『体を悪くしていない?』
「してませんよ。そちらは」
『私も、変わりありません』
「……よかった」
かすかに笑った気配がする。聞こえてくる声が全部私の心臓に染みていく。電話の向こうで彼がどんな顔をしているのか、どういう気持ちで言葉を紡いでいるのか、見えないことがむしろ有難かった。
「明後日とか空いてますか」
『はは……相変わらず急ですね。空いてますよ』
「ありがとうございます。私……あの、ウイングさん」
『はい、なんでしょう』
人の心はどうしようもなくて、こういう時に無理に抑えつけるのはよくないことなのだ。不義理だ。私は自分に対する不義理を許せない性質だった、だけどどうせ何もかも明後日には話すことができると思うと、それすらどうでもよくなって、だから私は、首にかけていたタオルを顔に当てた。柔軟剤の香り。フローラルなんたらとかいう、適当に買ったやつを気に入って、ずっと使っている。あの柔らかいにおいには到底及ばないけれど。
「明後日、楽しみにしてます」
『ええ。私も、もちろん』
「おやすみなさい」
『おやすみ。風邪を引かないように』
「ありがとうございます」
電話を切り、大きく息を吐く。どうしようもない。本当に。きっと自分で思っている以上に疲れていて、助けてほしかったのだろう。救いなんて言葉にはしたくないけれど、それが一番近いかもしれなかった。まぶたの熱が段々引いていく。いっそ求婚でもしてしまおうか。考えながらテレビの電源を入れる。
170624
リク:ウイング、お互い仕事は忙しくてすれ違うがハッピーエンド・切甘