水底のリトル・サン
男は呑気に写真を撮りながら、このあたりのことを聞いてきた。初めから観光ではないと言っていたので乗せた私が悪いが、それにしても一般人の船に乗り、その上この態度を貫く度胸は称賛に値する。男の質問に適当に答え、私はオールを握る手に力をこめる。
「あとどのくらい?」
「もうすぐです」
「そう」
男はそれきり口をつぐんだ。男の指定した、地上からでは少し遠回りになるその場所に、何があるのかはっきりと思い出せない。ただ市場は開かれないし、主要な店もないはずだ。それだったら記憶している。知り合いでも訪ねてきたのだろうか。いや、それならその知り合いに迎えに来てもらえばいい話だ。
目的の場所に着き、船を寄せる。男が立ち上がったことで船が揺れて道のコンクリートにぶつかる。男が下りるのを見てから右手の道を指さす。
「そこがあなたの探してる通りですよ」
「へー、何もないんだね」
「どうしてここへ?」
「会わなきゃいけない人がいるらしくてね」
「いるらしい?」
「これ以上は秘密。ところで君の家ってどこ?」
「その赤い屋根です」
「じゃ今日の夜行くから、よろしく」
「は?」
「またね」
「え、ちょっと」
軽やかな足取りで遠ざかる男の背に、思わずため息を吐く。まあたぶん来ないだろうけれど、このあたりには宿がない。もし宿をとっていないのであれば、ほっぽりだすのも悪いし、一晩くらいいいかと思った。
食糧やら服やらを抱えて家に入る。少し早いが夕飯の支度をしてしまおう。一応二人分。床に荷物を置くと軋む音が響く。立てつけの悪くなったドアは、片手では閉めることができないのだった。冷蔵庫に食材を入れ、昼間に干した洗濯物を取り込むために窓を開ける。
読書をしているうちに寝てしまったらしい。外は暗くなっており、テレビをつけると夕飯の時間は疾うに過ぎてしまっていた。腹が減るわけだ。本をテーブルに置いて立ち上がる。結局どこまで読んだのか分からない。台所に立ち、ソースの入ったフライパンを火にかける。隣のコンロに出してあった鍋に水を入れ、それもまた火にかけた。もしあの男が来なければ残りは明日の朝食になる。
それにしても変な男だった。友人を泊めることはままあるが、全くの他人はない。というかそもそも、どうして宿をとっていないのだろう。いや、宿がないからここに来るのかは知らないけれど、そうでなければ来る理由が分からない。女だから? そうだとしたら少し癪だし、面倒だ。
食器を片づけ、ワインの残りを飲みながらニュースを見る。居眠りをしたせいか、眠くなる気配がない。ぐいとグラスの中身を飲み干し、チャンネルを変える。シャワーを浴びたら本の続きを読もう……と思ったところで、ドアをノックする音がした。
「あ。遅くなってごめん」
「いえ……」
謝るべきところはそこではない。男を室内に迎え入れると、服が汚れていることに気づく。右足。太もものあたりにかけて、それは、赤いような。自身の予想に驚き、彼の顔を見る。
「どうしたの?」
「え……その、それは……服、汚れてますよ」
「ああ、やっぱ目立つ?」
「め……目立つというか、ええと、お怪我を?」
「あはは、ここ怪我してたらもうちょっと痛そうにするよ。シャワー借りていい?」
「え? あ、ど、どうぞ」
「あ、もしかして、君のこと殺すとでも思ってる? やだなあ。俺は殺人鬼じゃないよ」
「じゃあそれは」
「うっかりしてた」
「うっかり……」
「そのタオル借りるね」
うっかりしてた。何の答えにもなっていない。返り血。会わなきゃいけない人がいるらしい? まさか。彼が洗面所のドアを閉める。一気に酔いが冷めた。もしかして私はとんでもない人間を招き入れてしまったのではないか。ああ、あの時船に乗せなければこんなことには……。ソファーに腰掛け、大きく息を吐いた。
シャワーを浴びた彼は綺麗な服に着替えていて、安心する。事実は変わらないが、血のついた服を着た人間がいると思うと多少恐ろしい。
「何があったか、お聞きしても?」
「聞きたいの?」
「聞きたくないです」
「あはは。じゃ、君が俺を匿ったところで何の問題もないってことは言っとくよ」
「共犯……」
「極端だなあ」
「極端じゃないと思います」
「あ、これパスタ? 食べていいの?」
「あ……はい。食べるなら用意しますよ」
「君変わってるね」
「何がですか」
「俺が怖いんじゃないの?」
「怖いから媚びとこうかと」
男は椅子に座り、私を見る。何もおかしなことは言っていないはずだけれど。もう一度お湯を沸かし、その間にフライパンの中身も温める。
「それ、俺のために用意したの?」
「そうですよ」
「どうして?」
「夜に来るということは、宿がないんだろうと思って」
「甘いんだね」
「甘い?」
「一晩ほっといたって死にはしないのにさ」
「あなたが来なければ、明日の朝食を用意する手間が省けました。でも、それだけです」
「……ふーん」
なんとなく振り向けないまま会話が終わる。男はどんな表情をしているのだろう。甘い。そうかもしれない。来るかも分からない初対面の男のために食事を用意し、この時間に家に入れ、シャワーを貸す。でも多くの人はそうするだろう。それに、行っていいかと聞かれたわけではない。行くからと言われたのだ。
頬杖をついてテレビを眺めている男の前に、パスタの入った皿を置く。濡れた髪が男の瞬きに合わせて揺れる。ふと私を見たその目に、動きを止めざるを得ない。
「なんですか?」
「何が?」
「……いえ。髪、乾かさないと風邪引きますよ」
「そしたら、君は看病するの?」
「え? まあ、できる範囲でなら」
「俺さ、帰るの一週間後なんだよね」
「はあ」
「君の船で観光させてよ」
「ええ……図々しい人ですね」
「あはは。変なの」
何故か機嫌のよくなった彼はようやくフォークを手に取り、皿を手前に寄せる。怖い人にはとても見えなかった。だから甘いと言われてしまうのかもしれない。でも、好き勝手喋るこの人を乗せて遠出するのも悪くないと思った。どうせもう会うこともない。そう考えると、少しだけ寂しくなる。私は二人分のグラスとワインをテーブルに置き、コルクを抜いた。
「ワインはお好きですか」
「機嫌よくなったんだね」
「あなたも」
「まあね」
彼がきちんと笑う。それが嬉しくて、あるいはその笑顔に安堵して、私も笑うのだ。
title by alkalism/170611
リク:シャル夢