うつろを抜けて手をとって
割れたマグカップを眺め、私はその場にしゃがんだ。ジーンズ生地の張る感触が肌に痛い。余程ぼーっとしているのか、単なる偶然か、ちらと視線を向けた先にある紙袋には同じように割れた皿が入っている。今日はついてない、と時計を見上げる。家を出る予定の時間は十分ほど前に過ぎていて、ますます体が重く感じた。
べつに悩むようなことじゃないのだけど、悩む必要がありそうなので悩んでおいた本日の服装。この間新しく買ったTシャツにスキニージーンズ、底と紐が白い紺のスニーカー、シルバーの腕時計、それとクラッチバッグにはスタッズで星が描かれている。前の彼女がプレゼントしてくれたものだ、別れた時に捨てるか迷ったが、気に入っているので使うことにした。物に罪はない。強いて言うなら私にあるのだ。
鏡で全身を確認するとTシャツの袖からタトゥーがはみ出しているのに気づく。昔の男にやらされたものだ、これは消せないので、迷いもしないし、気に入ってもいる。結局自分の気に入ったものしか手元に残さない。当たり前のことだ。
「おっせーよてめえ」
案の定待ち合わせ場所に着いたのは彼の電話から一時間が過ぎた頃で、相手の男の機嫌は悪い。適当に二十分くらいで着くと言ったのにこれだから、もういないかもしれないと思っていた。きっとこの男も先ほどここに来たばかりなのだろう。
「ごめん。犬の体調が悪くてね」
「犬なんて飼ってんのか?」
「いや、飼っていない」
「相変わらずわけわかんねえ野郎だな」
「で、まずは久しぶりと言っておくか」
「勝手に言ってろ」
変なやつ。タンクトップから伸びる腕は普通の男のそれよりも太く、充分に強いのだろうと思わせる。こいつはまだあの安アパートに住んでいるのだろうか。私の残したテレビでも見ながら、酒を浴びるように飲んでいるのだろうか。気にする必要のないことを考えてしまう。いつ切れるとも知れない関係を大切にしたいと思い始めたのが悪かったのだろう。今までのような相手と付き合ってもやはりしっくりこないのは、きっとあの夏からだ。
家に着くと男はすぐソファーに座り、テレビをつけた。その図々しさに笑ってしまう。あの頃だってそうやって私の部屋を荒らしたのだ。たまに来ては酒を飲み、泥酔しながら帰っていく時もあれば、そのまま寝始める時もあった。本当に稀に、ただご飯を食べに来る時もあったけれど、そういう時の彼はいつも不機嫌だった。
「ビールでいいか?」
「ああ」
「それにしても、連絡先を知っているとは思わなかったよ」
「お前のいない時に調べたからな」
「はは、ひどいね。平然と言うあたり、君も相変わらずだ」
「当たり前だろ」
「二年もあれば人は変わるよ」
「お前も何も変わってねえじゃねえか」
「どうかな。全く一緒というわけにはいかないけど」
「めんどくせえやつ」
自身の面倒くささは重々承知している。一番迷惑しているのは私なのだ。でもこういう人間は案外たくさんいて、だから私も笑っていられる。ただの傷の舐め合いだとしても、それはちゃんと愛の代わりになるので。
「そういや、あの女どうした?」
「ああ、別れたよ。穏便に」
「へえ」
「なに驚いてるんだ」
「あれと穏便にかよ。お前相当嫌ってただろ」
「べつに嫌いだったわけじゃない。言っただろう、ああいうものなんだよ」
「俺なら殺しちまってた」
「君は時々物騒なことを言うな」
ビールとつまみをテーブルに並べながら話していると、全て置き終える頃には男が缶を開けていた。こうも他人を気にしない人間が近くにいると彼女らはなんだったのだろうと思ってしまう。いつも私を見てくれないと言い放った彼女。お前は女じゃないと言った彼。付き合った女全員に入れ墨を描いたという彼。誕生日に鞄をくれた彼女。激しい束縛と憎悪だ。彼らは皆何かを失って、その代わりにそれを手に入れていた。私だって、殺せるほど憎めたら、怒りを覚えることができたら、まだよかったのかもしれない。
彼の隣に腰を落ち着けてテレビに目をやるが、時間も遅く面白いものはやっていないようだった。隣で何を考えているのか、既に二本目を開けている彼の、二年ぶりとは思えない気軽さに今さら困惑する。ビールの炭酸と苦味が全身を刺激し、脳を痺れさせる。足を組みスリッパをつま先で揺らしていると、男がチーズに手を伸ばした。もちろん、男は用意したスリッパを履いてくれていない。
「君はさ……」
「ああ?」
物騒なことを言うのは昔からだった。でも、詮索はできない。そもそもよく分からない生活をしている人だったので、突飛なことを言われても何も思わなかったのだけど。自分の言おうとしていることをもう一度考えながら、缶を傾ける。
「私が面倒なことを言ったら、殺す?」
「なんだそりゃ。お前いつもめんどくせえこと言ってんだろ」
「そうかもしれないけど……そうじゃなく、あの彼女みたいなことだよ」
「何言ってたかなんて覚えてねえよ」
「どうして私だけを見てくれないの、とか」
「お前は言わねえだろ」
「言うかもしれないよ」
「うるせえなあ。俺が殺してえと思ったら殺すんだから、余計な心配したって無駄だっつーの」
「……それは困ったな」
無茶苦茶な理屈だが、なんだか妙に納得してしまった。この男なら本当にやりかねないし、私にそんな嘘を吐く必要もないだろう。
「お前殺されてえの?」
再び隣に顔を向けると彼と目が合った。彼はそこになんの感情も乗せていないようだった。たとえば、軽蔑だとか、怒りだとか。純粋な疑問らしい。もしかして私が肯定すればそうしてくれるかもしれないとさえ思った。そんな風に考えてしまう自分に思わず笑う。
「君は変わってるね」
「はあ?」
「君が最後なら、本望かもしれないな」
「言っとくが、俺は死にてえやつを殺してやるほどお人よしじゃねえぞ」
「ああ、そうだな。君には頼まないよ」
「なら下らねえこと聞くな」
「じゃあ、ついでにもう一つ下らないことを言おうか」
「ああ? んだよ」
「私は君に抱かれる気がある」
手のひらの水分が缶の結露なのか、それとも別のものなのか私には分からなかった。この男は私を女だと思っていない。性別は知っているはずだが、彼女のことがあったから、彼の中の私はよくて同性愛者だろう。缶の中身を飲み干す。
「」
「何かな」
「俺はお人よしじゃねえっつったろ」
「そう、……だね?」
驚いて男を見る。左手首が痛い。こんなに感情の見えない男だったっけ。力で敵うはずもなく、私は男の出方を待つしかない。
「びびるぐらいなら言うな。言ったんならそりゃてめえの意志だ」
「君からしたらだろう」
「思ってもねえこと言うなっつってる」
「殺す気になった?」
「ならねえ。アホかお前」
「そうかもね」
「いつまでもびびってねえで覚悟決めろ」
「え、何が」
「俺に抱かれるんだろ?」
半分くらい試すつもりで口に出した言葉だった。それをこの男も分かっているのだろう。だからこそあんな忠告めいたことを言って、でもそれなら私を抱くのは欲望なのだろうか。この単純馬鹿の、実は一度も見たことのない欲。しかし本当はそうでないとしたら……。
「……確かにお人よしじゃないみたいだ」
「やっと理解したか」
男が私の腕を引いた。不安も後悔も無理やり拭い去られていく。誰でもよかったのかもしれないと思いながら抱くのとは、抱かれるのとは違う。こんな強引な……お人よしは、他にいないだろう。私は男の唇を受け入れる。ああ、色々なことは後で考えよう。今日はどうやら「ついてない」日じゃなく、頭の働いていない日だったらしい、と思う。
title by 徒野/170509
リク:自分の性別に違和感を持つ女の子がフィンクスに惹かれる・よくわからない話