光源は宇宙
今日も無事生き残ることができた。銃を下ろして足元に伸びる手を見つめた後、私は出口に向かって歩き出す。男がつけたテレビの音がやけに耳にこびりつくので振り向くと、中途半端に開いたカーテンの隙間に自分の姿を見てしまう。罰なのだろうか。私はテレビの電源部分に銃を向けるが、結局撃たずに部屋を出た。私のいいところは、捜査の邪魔になるようなことをしないところだ。馬鹿馬鹿しい褒め言葉は自分が疲れていることを示している。緩く結っていた髪をほどき、血のついたジャケットを脱ぎ捨て、一分ほど経ってからそのポケットに家の鍵を入れていたことを思い出し、恥ずかしい思いをする。
遙か昔の話、私には挨拶をする相手がいた。思い出さなくてもいいことだ。鍵と違って、思い出は必要がない。そして誰かに拾われても問題ない。しかし簡単に捨てることのできるはずのものにいちいち襲われるというのはひどく空虚であった。
ともかく私は自室に足を踏み入れる。真っ暗な室内をしばらく見つめ、きっとこのまま放っておいたら朝日で明るくなるだろうと考える。ごちゃごちゃとたくさんのものが乗ったテーブルに適当なスペースを作り、持ち物を一つずつ置いていく。一番重いのは銃。それから携帯電話。腕時計。ネックレス。イヤリング。ただでさえはっきりしない視界が歪む。私は時々涙を流す。そうでもしないとどうしようもなかった。ずっと後悔している。迷わずに私は後悔することを選んだのだ。だからこれでいい。きっと。
ベッドに腰掛けると今日のことがぐるぐると頭を巡った。「人の心がない」「殺人鬼」「俺には愛する妻が」「いつか分かる」、いつかなんてとうに過ぎてしまった。器用な女主人の施したネイルも暗闇の中では意味をなさない。最近あそこの酒を飲んでいないな、と思う。ネイルもこれきりだろう。だから私には不釣り合いなものだと言ったのに。立ち上がってケータイに手を伸ばし、時間を見る。久しぶりに飲みに行こうかな。疲れ切った頭は間違った判断を下すけれど、それを止める者はない。崩れた化粧をどうにか見れるように戻してから、ケータイと銃をハンドバッグに入れる。もう今日になった明日はオフ。依頼は受けない日。最後のチャンスだ。……きっと。
当然のように彼はそこにいた。そこが最初から彼の指定席だった。女主人は私を見てにこりと真っ赤な唇を歪める。彼が私の姿を認め、はっと目を見開いた。彼が何か言う前に鞄を椅子に置き、主人の厚ぼったい瞼に焦点を合わせる。
「ネイルが剥げてきたの」
「しょうがない子」
「いい匂い」
「鼻が馬鹿になってるねえ」
「仕事終わりでないとここには来ないわ」
「随分遅かったじゃないの」
「レディは身支度に時間がかかるものよ」
「あんたは立派なレディだ、瞼の腫れた、まるで思春期の」
「他人のゴシップで肥えた更年期のレディは、口もうまいのね」
「幼子の馬鹿嗅覚で、その鬱陶しいお花の臭いを嗅ぎつけたってわけかい」
「虫の知らせよ。お花ならね」
「……言い合いはそのへんにしてくれ。あんたらのそれは俺には長すぎる」
「じゃ、ギムレット」
「はいよ」
「最初からそうしろよ!」
「冷たいのね。久しぶりに会った友人だって言うのに」
血の臭いはしないだろうか。男の隣に座ると一層香水を感じる。私のそれなんてかき消してしまうような。だから彼を見ていられない。大粒の宝石がついたイヤリングを触り、ただ呼吸を繰り返す。「まさかいるとは思わなかった」。そんなことを言えたらどれだけよかっただろう。あるいは単純に再会を喜べたら……私の指先が弄ぶのはちゃちな宝石なんかじゃなかったはずだ。彼の視線が外されたところでレディがグラスを私の目の前に置く。
「チーズはサービス」
「ありがとよ、マダム」
「じゃあしばらく店番よろしく」
「ええ。戻ってきたら私もお願いね」
「分かってるよ」
彼女が仕事道具を持って店を出ると場は静まり返ってしまう。もちろん、レディ好みのレコードはかかったままだけれど。グラスの中の氷を揺らす。一体なんの必要があってこの男は私の目の前に現れたのだか分からなかった。でも、よかった、私はきちんと後悔できている。
「拍子抜けしたぜ」
「平然としてるから?」
「もうここにも来ねえと思ってた」
「ネイルが剥げてきたのよ。これはあの人にしかできないものなの」
「んな嘘俺に言ってどうする」
「嘘じゃないわ」
「どんだけお前を見てたと思ってる!」
「たかが半年でしょ。それで人の何が分かるの?」
実際この男は、私が殺し屋だということを今でも知らない。家を出て行ったのは単に新しい男ができたからだと思っている。もちろん私の耐え切れなくなったポイントの一つがそれだった。純粋で嘘を嫌う、真っ直ぐな男。口紅の跡がグラスについているのが見え、親指の腹でそれを拭う。やっぱり疲れている時に行動するとろくなことがない。今すぐにでも私は一人になるべきだった。
「けどお前は俺がいるかもしれないここに来た。あの時なんで逃げたんだよ」
「さあね」
「怖いって言ったよな」
「なんのことかしら」
「とぼけんなよ」
「男って昔の話を蒸し返すのが好きね」
「そんだけてめーのこと考えてんだよ、こっちは」
「あら」
耳にかけていた髪がするりと頬を撫でる。おかしくてたまらない。そういうなんの根拠もない言葉を信じることができるほど、今の私は暇ではないのだ。
「お前の仕事のことはいい。どうせ言いたくねえんだろ」
「これ以上あなたに嫌われたくないわ」
「誰が誰を嫌いになるって?」
「本当よ。本当……」
「……お前、そんなんでよく俺から逃げたな」
「あなたから逃げられない人なんていないわよ」
「ああ、お前以外はな。一人になるとすぐ泣くし、仕事から帰るといつも呆然と目の前を見つめてるような女が、お前が、一人で大丈夫なわけねえだろうが」
別に逃げたんじゃない。言い返そうとするがうまく言葉をまとめることができない。酒のせいか疲れのせいか、とにかく私以外の何者かのせいで、彼のいないほうの髪をまた耳にかける。だから会いたくなかったのだ。彼は私のような女と、私は彼のような男と一緒にいるべきではない。駄目になってしまう。私はそれを壊す人間なのだ。氷が溶けて水っぽくなったアルコールを飲む気になれず、喉は渇く一方だった。
「戻ってこい」
きちんと後悔できているだって、笑わせる。まだこんなに迷っているのに。さっきまで人を殺していたのよ。何度こんな葛藤を繰り返しただろう。そしてこれはこの男といる限り続くのだ。私は一般人と恋に落ちるべきではなかった、分かり切っていたことなのに、それでもこうして……。
「私はあなたの思うような人じゃない」
「何度も聞いた」
「何度も言わなきゃいけないくらい大事なことなのよ」
「でも、俺にとっては大事じゃねえんだよ」
「デリカシーのない男」
「んだとお?」
「なによ、酔っ払い」
「お前もだろ、馬鹿」
グラスを持っていた右手は冷えて、熱い瞼にはちょうどいい。マスカラしなくてよかった。無駄とは分かっているけれどなるべく静かに呼吸する。男の手が、頭に触れる。躊躇って、迷って、ようやく逃げたのに、どうしてあなたはそうやって何もかも連れ去ってしまうの?
「愛してるの……あなたを」
「ああ、俺もだ、」
また後悔することになるのかもしれない。いつかはこの手で殺すことになるかも。彼自身でなく、彼の大事な人たちがそうなる可能性だってある。でもそんな理屈は無駄なのだ。守ることができるだろうか。この人を……。
170504/リク:坂本真綾の「レプリカ」みたいな雰囲気の幸せな話