焦がれた水槽の底であなたと泳眠
「XX様!」
普段は滅多に声を荒げない男が私に向かって叫んだ。切羽詰まったその顔はしかし私の脳にちゃんと働きかけてくれない。次の瞬間男の頭を何かが貫き、倒れようとする体に何発もそれが撃ち込まれる。ボス、隣の男の叫び声が途切れた。そこに感情が産まれる前に、私はただただゆっくりと顔をステージに向け、そして二人の姿を認めた。
人身売買。それだけ聞くと大層悪いことのようだが、買われた先さえよければ元いた所とは比べ物にならない贅沢な生活が待っている。誰かに求められたらセックスをする、それだけでこの暮らしができるのだから儲けものだ。そういう意味で私はとても恵まれていた。今ではカラマンリスファミリーのナンバーツーの愛人という立場を勝ち得て、なんと私専属の護衛兼お世話係までいる。たまに鬱陶しく思うこともあるがそんなのは些事だ。組が面倒事に巻き込まれた時や彼の機嫌が悪い時はあまり贅沢できないけれど、こんな生活があり得るということもここに来るまでは知らなかったのだから、何もつらいことなどない。
悲しいこと。悲しむべきこと。それは消えない過去であり忘れられない思い出であり、またそれらを思って流れる涙である。全てをここまで引きずってきてしまったというのが、私にとって悲しいことなのだ。何もかもを捨てられる場所に、何も捨ててこれなかった。おかしな話だ。美しいドレスを着て、綺麗に化粧をして、おいしいご飯を食べて、それでも思うのはゴミ山のことなのだから。
あそこには色々な人間がいた。私はそこで大抵の場合ある大柄な男と一緒にいた。怒る時は怒るしそれはとても怖かったが、普段は優しく頭もいい人だった。離れてみて実感した。私は彼と一緒にいたかったのだと。
私に新たな名を与えたのは、初めて会った時からとてもよくしてくれた、ボスの妻である女だった。太陽という意味らしい。そんな名前と私は遠慮したが当然拒否権なんてなかった。そうやって今までの全てを消され、私は、新しい人生を享受した。
頬を、弾丸がかすめた。
私は立ちすくんでいた。悲鳴、怒号、銃声、その場はたくさんの音で満たされているのに、どれも耳には入ってこない。まるで私と彼らしか存在していないように私は私の鼓動の音だけを正確に把握していた。それでは、堅苦しい挨拶は抜きにして。遅れて頭に声が流れる。高い声、なまりのある喋り、切れ長の目。あれは間違いなく……いやそう言い切れるほど記憶は鮮明ではないが、あれは、フェイタンだ。そしてその後ろで弾丸を飛ばしている大男……。
「フランクリン」
目が合った。惨劇の中呆然と彼らを見つめる私に、彼らは何も言わない。頬はじくじくと痛んでいる。指先が冷え切って震えていた。急に体の力が抜け、床に膝をつく。なんで? なんでいるの? 何をしてるの? 疑問が頭を駆け巡る。ドレスは誰かの血で濡れていく。近くには護衛の男の死体が転がっている。一緒に来ていた私の彼も死んでいた。彼の連れていた護衛も。そこかしこに知った顔の死体がある。あれはボスだ。そしてその妻。私が今、すべきことは。私も死ぬのか。でも。
銃声が止む。
「」
はっとして顔を上げると、やはり彼と目が合う。どくん、と心臓が脈打つ。。私の名前だ。遠い昔に消し去られた、名前。
「そういえばカラマンリスに買われたんだったか」
「よく分かたね。顔変わてるよ」
「お前はまだ小さかったから覚えてねえんだろ」
「ほんとに……ほんとに、フランクリン、と、フェイタン……なの」
出てきた声は今にも消えそうで、自分で驚いてしまう。口の中の唾液を喉に通す。
「ああ。久しぶりだな」
「また居場所失くしたね、お前」
「……」
「フェイ、先に上に行ってる」
「……了解」
フランクリンが動けない私を持ち上げた。血が滴る。思い出に殺されそうになる。今さらどうしろって言うの。たくさんのものを与えられて、その癖何も捨てられなかった私の前に、どうしてあなたがいるの? 脳内の混乱が激しい。
やがて屋上へ続くドアが見えた。そこで体を下ろされ、階段に座りこむ。
「逃げる先はあるか」
数秒の沈黙の後彼が言った。彼は立ったまま目線を合わせるために少しかがんでいる。回らない頭に、言葉はゆっくりと浸透していく。逃げる先。ああうちの組は潰れるのだ。ボスもナンバーツーもその下ももういない。完全な下っ端では立て直すこともままならないだろう。何より私を可愛がってくれていた人間が死んだ今、あそこに私の居場所はない。また、居場所を、失くした。……私がカラマンリスに買われた時のことを言っているのだとしたら、相当な皮肉だ。自嘲的な笑いがこぼれる。
「そんなの、ないわ」
「」
「フランクリンは人を殺すのが仕事なの?」
「……いや。まあ殺しはするが」
「じゃ私を殺して」
「……」
「あそこのこと忘れられなくて、どうやったって、私、"太陽"にはなれなかった。本当は捨てるべきなのはこっちだった……」
「……捨てればいい」
「……殺してよ」
「そんなに逃げてえか」
「ええ」
頷くと彼は体を起こし、小さくため息を吐いた。これでようやく全てを捨てることができる。このまま生きていたってどうせ惨めなだけだ。必死で居場所を探して、また一から作り上げる? 知らない名前の戸籍を使って?
「俺と来るか」
「……え」
「"太陽"はここで死んだ。お前が捨てたかったもんは俺らが潰した」
「それは、そうかもしれないけど」
「お前は俺の知ってるだ」
「……うん」
「すぐ仲間が集まる。お前も知ってるやつが何人かいるはずだ。そいつらのことは俺がなんとかする。……アジトに戻った後、俺の家に連れて行ってやる。もちろん今までお前がしてきた暮らしとはかけ離れているだろうがな」
「……」
「それでも逃げてえって言うならしょうがねえ」
優しい人だ。昔から。こんな私に、あなたと一緒にいるという選択肢を与えてくれる。視界が歪む。階段を上る音が聞こえた。
「一緒に行ってもいいの?」
「むしろ、思いがけねえお宝が手に入った」
「お宝?」
「俺たちは盗賊だからな」
フェイタンが私を見て眉をひそめる。その後ろに知らない女の子。フランクリンの出した手を取ると軽く抱えられてしまった。人殺しもする盗賊か。マフィアよりよほどかっこいいじゃないか。
ドアが開き、月に迎えられる。そして、暗闇に飲み込まれる。
title by 喘息/160711