いまだけは傍らの熱にあまえさせてほしい

 じわりと湿っている。首元に当てた手のひらが湿り気に侵される。あつい、呟いた声が掠れていて、喉がからからに渇いていたことに気づいた。

「暑いなら離れればいいのに」
「あんたってすぐそういうこと言う」
「えーだって俺も暑いし」
「じゃなんで離れないの」
「そりゃさあ」

 男の手が私に触れ、汗のにじむ額から髪の毛をどかす。いつにも増して体温が高い。少しだけ隠しきれない嬉しさが伝わってきて私は笑った。そのまま唇がぶつかって、汗だか唾液だか綺麗でないものがこぼれる。だんだん潤っていく。そうしてやはり熱い両腕が背中に回された。湿ったシーツが私たちの下でぐちゃぐちゃになっている。

「クーラーつける」
「さすがに?」
「汗がひどいの」
「シャワー浴びるか」
「ねえ」
「ん?」

 呼びかければ目が合って、彼はその髪を揺らして応える。
 きれい。この世界において、それだけが正しくて、必要なこと。
 腕を伸ばし頭を撫でるようにすると片腕で引き寄せられた。見つめあえるぎりぎりまで体が密着する。目を閉じるのはどちらが先だっただろう。いつもと同じ、でもいつもよりあまいような気のするそれに、どろどろに溶けてしまいそうになる。頭が暑さでやられたせいかもしれない。けれど私にとってシャルとのキスが甘いというのは真実だった。

「疲れたんじゃなかった?」
「疲れたよ」
「誘うようなことするなよ」
「子供じゃないんだから」
「好きだろ」
「早くシャワー浴びてきな」
「あはは」

 体が離れていく。下着だけ履いた白い後ろ姿は洗面室に消えた。美しい、背中が、視界に焼き付いてしまった。しばらく瞬きと呼吸だけを正常に繰り返してから、私もベッドを降りる。むこうから水音が聞こえる。重いカーテンを開けると日差しが目に痛い。
 冷気が汗を冷やしていく。ぼーっとテレビを眺めていると、洗面室のドアが少し開いた。

ー」
「なに?」
「タオルない」
「あー忘れてた」

 外に干したままだったバスタオルを取り込み、ついでに着替えも持って行く。受け取った彼は濡れたままもう片方の手で私の頬をすっと撫でて、中に戻る。水が頬から首元を伝い、じわじわと胸まで滑り落ちる。

「すぐ出るから」
「いいよ、急がなくて」
「そんなに急いでないけどね」
「急げよ」
「何食べたい?」
「シリアル残ってるよ」
「またそれ? 俺コンビニ行ってくるよ」

 出てきた彼と目が合う。どうやらそれは決定事項らしい。微笑まれてしまい、私は仕方なくリビングに戻った。


 シャワーから出るとソファーで何やらパソコンをいじっているのが目に入る。なんとなくそこから顔を背けて髪からたれる雫をタオルに染み込ませた。コンビニの袋がテーブルに置かれている。中のヨーグルトを見てああもうなかったかとぼんやり思う。
 ドライヤーのスイッチを切れば、そこには重苦しい静寂だけだ。ドアの隙間からテレビの音声やクーラーの稼働音は入ってくるけれど、私、人間一人の場はいつだって沈黙している。リビングに戻った時パソコンが閉じられているのが見えてほっとした。その隣に腰を落ち着ける。

「今度はどのくらいかかるの」
「んー、分かんない。そのまま別の仕事行くかもしれないから」
「そう」
「まあでも、時間あるだろうから一回戻ってくるよ」
「いつなの?」
「来週末」 「ふーん」
「寂しい?」
「当たり前でしょ」
「あはは。素直だな」
「帰ってきてくれればいいよ」

 面白そうに笑っていた顔が一瞬固まり、それから少しずつ緩んでいく。目の前に考えたくないことがある時この人は口元だけに笑みを貼り付ける。恐ろしくも思えるような、それも消えていく過程で不意に彼の手が伸びてきて、若干湿ったままの髪に触れた。
 私は何も言えない。偽りを貼り付けていない口が言う。

「お前、俺が帰ってこなくなったらどうするの?」
「……浮気する予定でもあんの?」
「理由はなんでもいいけど」
「さあ。その時になってみないと」
「そりゃそうだよな」
「急にどうしたの」
「気になってさ」
「……帰ってくるよね」
「どうかな」
「あ、そ」
「ごめんごめん。たぶん戻ってこれるからそんな怒るなよ」
「無理なら早めに連絡ちょうだい」
「うん」

 ふっと表情が和らいで知らない人はいなくなる。ねだるみたいに首を傾れば顎を持ち上げられて、さっきより冷えた唇にいろいろなものが沈み込む。
 私は、帰ってくるかどうかを聞くことしかできない。他のことを知る権利はない。その時が来れば、理由を知ることもなくこの関係は終わるのだろう。唇が離れる。なんだかどうしようもなくなって私は彼の胸に縋りついた。驚いたように漏れる息の後、かすかに笑う声。

「なんだよ」
「行かないで」
「……

 ほんとは、ほんとはずっと思ってたけど、言えなかった。言ってはいけないことだった。だからすぐに、彼の思考が結論を出してしまう前に、私は息を吸い込む。

「なんでもない。ごめん」
「……参ったな」

 離れようとしても既にしっかり抱きしめられてしまっていて、仕方なく言葉を待つ。頭を撫でる手が一度止まって、何を言うべきか考えているのだと分かる。ああ駄目だ、それを待っていてはいけないのに。私が縛ってはいけないのに。

「忘れて」
「やだ」
「シャル」
「まさかそんなこと言うとは思わなかったから、ちょっとびっくりしたけど」

 こいつ持論を展開する時に人の話を聞かないのをやめるべきだと思う。ため息を吐く。彼は続けた。

「むしろ今まで言わなかったのがおかしいのかもな。変なとこ頑固っていうかさ。……状況によるから絶対とは言えないけど、帰ってくるつもりではいるから」
「……うん。ごめん」
「謝るなよ。お前しおらしいとなんか変だぞ」
「失礼」
「あはは」

 体が解放されて私は立ち上がる。少し遅いが朝食にしよう、と思う。今になって体がだるい。何にしても来週末まではここにいるのだろうし、特に焦るようなこともない。まあ一週間なんてあっという間に過ぎてしまうのだけれど。帰ってくるつもりでいると彼が言うのだから私は信じていればいい。……たぶん充分なのだ、それで。私は思考をしまい、置きっぱなしだった袋からパンを取り出した。



title by 喘息/160618