瘡蓋のすみっこに愛の調べ
愛された記憶というのは時折私を殺そうとする。捨てなければならないものだ、と思う。すれ違った親子の会話を無意識のうちに私の耳は追いかける。それに気づいて私は何かを諦めたようにため息を吐く。
はっきりと覚えているわけではない。さすがにその後の地獄のせいでほとんど薄れてしまっているが、忘れられないのだろうなと思うことがよくある。諦めきれていないのだろうな、と思うことが。
たとえばスーパーで夕飯を考えている時、よく母親らしき人間を目にする。彼女らはそれを盗むなどという発想もないのだろうと考える。そんな人間の鞄から財布を盗るのは難しいことではない。
盗んだ財布片手にスーパーの近くの薬局に入る。私は一人で眠ることができない。あの部屋に住み始めてからは無理やり体を眠りに引きずり込んでいるけれど、もう薬も効かなくなってきている。こんなことならずっとホームにいればよかったとたまに思ったりもするが、あんなところにはいたくなかったのだ。お前の故郷でもあるだろと言われ、何も言い返せなかったのが、今になって虚しい。薬の数ばかりが増えている。
買い物を終え帰宅すると、屋根の上に見慣れたシルエットがいた。そうして私の心臓は息を吹き返す。
「ウボォー!」
「お、ようやく帰ってきたか」
待ちくたびれたと言いながら男は地上に降りてくる。地面のひびから目をそらし、出された手にスーパーの袋をかけた。鍛えた腕でさえ多少重く感じるのに、男の手のひらはその程度ではびくともしない。
「少ねえよ」
「一人分だよ、だって」
「腹が減った」
「なんか盗ってきなよ」
「酒は?」
「だから、盗ってくれば」
「せっかく会いにきてやったのによお」
「連絡くれっていつも言ってるでしょ」
「連絡先知らねえって言ってるだろ?」
誰もいないことを確認した上で、まだ自分を愛してくれる人間がそこにいるのではないかと思ってしまう、いつもとは違う。小さく息を吐いてから鍵を開けた。
男は袋の中から食料だけ出して冷蔵庫にしまい始めた。男の足元に置かれた袋を手に取ってテーブルに移動する。少しして、しまい終わったらしい男がそこから言った。
「行こうぜ」
「え? ……酒屋?」
「ああ」
「私夕飯作るから」
「馬鹿か。行くぞ」
「……分かった」
言い訳を聞き入れてくれない男だった。何も分かっていないような顔をして、しかし私なんかより余程たくさんのことを分かっているのだろう。分かっている自覚があるかどうかは別として。
自分の家の近所で騒ぎを起こしたくないので、私はあまり大がかりな盗みはしない。こいつだって一応それを分かっているはずだ。何回も言っているから。でも、大人しく盗めと言ったって無理なことは知っている。だからなるべく遠くまで盗りに行く。特に急ぐことでもないしと歩く男の背を追いかけながら、声をかける。
「ねえ」
「あ?」
「今日泊まっていけるの」
「いつも泊まってんじゃねえか」
「そう」
「お前が帰ってくりゃいい話なんだがよ」
「……」
「冗談だ」
「分かってるよ」
「住んでやってもいいぜ」
「……それは困るけど」
「いつもそれだよな」
「あんたでかいじゃん」
「あそこが狭いんだろ」
もちろんあの部屋にここまで場所を取るやつがいるというのも困る要因ではあるが、それ以上に、この男がいることに慣れてしまいたくなかった。……もう失って傷つく存在を作りたくない。きっと、手遅れだろうけど。
部屋に戻ってきた時には八時を回っていた。随分ゆっくりしていたらしい。さっさと作ってしまおう。台所に使う食材を並べていると、向こうで缶を開ける音がした。
テレビから流れる大勢の声に胸がざわつく。食器を片づけ終わり、ベッドに腰掛ける。相も変わらずよく食べる男だ。しかもよく飲む。こちらを向いた男からひどくビールの臭いがして、思わず顔をしかめた。
「酒くさ」
「飲んでっからなあ」
「酔っ払い……」
「おら、も飲めよ」
「はいはい」
床に座る男の硬い髪の毛が足に当たって少しくすぐったい。渡された缶を開け、ぐっと一口煽る。独特の苦味が喉を刺した。テレビに目を向けて髪を撫でていると、男は頭を私の腿に乗せた。犬かよ。……こんな巨大な犬は飼いたくない。
「眠いの?」
「いや」
「あっ、ちょ」
腕を引かれそのまま床に下ろされる。渋々缶をテーブルに置いたところで、後ろから抱きしめられた。バランスを崩し彼の足に落ちてしまう。仕方ないか。見上げると、なんとも言えない表情をしている。いつもと様子が違う。酔って大人しくなることはままあるが、急に抱きついてきたりはしない。
「どうしたの」
「どうかしてねえと抱きしめちゃいけねえのかよ」
「そんなことはないですけど」
「食っちまいてえ」
「は?」
「おめーのことだよ」
「は、……はあ?」
男は説明することなくベッドに肘を置き、そこから私の頭を撫でた。髪がぼさぼさになる。食っちまいてえだあ? 何を言っているのだこの男は。手は止まらない。いくら動物的と言っても人肉を食べる趣味はなかったはずだ。再び目を合わせ思考を読み取ろうとするが、見たことのない顔で見つめられていたたまれなくなる。酔ってるだけだ。たぶん。そう思って考えるのをやめると、頭を撫でていた手が頬に当てられた。熱い。これは絶対に酔っている。何も言わないでいたらその手はそのまま私の顎を掴んで、男の方を向かされる。嘘でしょ。目が合う。
「逃げねえんだな」
「……いやこれ逃げられないでしょ……」
「怒りもしねえ。そんな無防備だとマジで食っちまうぜ」
「……キスでもするの?」
「ああ」
「私、でも、処女だし、あんたのは絶対入らないからセックスは遠慮したいんだけど」
「お前ちっせえもんな」
「私のサイズの問題じゃないよね」
「目、閉じねえの?」
瞬きをする。嘘でしょともう一度思う。どうして。目を閉じてすぐ、存外優しく触れたそれにさらに混乱する。小動物への愛撫のような口づけ。酒臭い。
「息止めんな」
間近で囁かれた言葉に脳髄が痺れていく。知らず止めてしまっていた息を吐き、肩の力を抜く。緊張なんて言葉では表せないほど。再び重ねられた唇はやはり熱い。これどうやって呼吸すればいいのか分からないしまず、そもそも、なんで私こいつとキスしてるんだ? 顎を掴んでいた手はいつの間にか後頭部に回されている。
嫌だ。失いたくない。期待したくない。いなくならないで。頭のどこかでこいつがたまに遊びに来てくれることや、添い寝してくれることの理由を分かってはいたのだ。それでもこうしてはっきり行動に示されるとそれは大きな期待となる。やめて。やめてと心が叫んでいる。
「何泣いてんだよ」
「知らないよ……」
「お前、俺がここに住むのは困るっていつも言うが、ほんとのところなんでだ」
「……なんで、そんなこと聞くの」
「住む気でいるからに決まってんだろ」
「……あんたから抜け出せなくなるのが怖いから……」
「抜け出せなくなる?」
「今からまた、一人じゃない状態を知っちゃったら」
「昔のことなんざさっさと忘れろよ」
「……簡単に忘れられたら苦労しない」
「あー、俺が忘れさせてやる。ぜってえ忘れさせてやるから」
「なんの根拠があってそんなこと言うわけ」
「うるせえな、忘れるっつったら忘れるんだよ。うじうじ言ってんじゃねえ」
「……ごめん」
意味の分からないことだった。でもだからこそ納得できたのかもしれない。涙を拭い、ビールに手を伸ばす。またいなくなったら私はどうすればいいのだろう。一気に残りを飲み干すと缶を奪い取られた。
「今ぐらい俺のことだけ見てろよ」
「熱烈だね」
「は馬鹿だからな」
「だから何よ」
「何個も同時に考えることなんてできねえだろ?」
「……はあ、分かったよ」
ため息を漏らす。忘れることなんてできないだろうけど、言いなりになってやろう、と思う。未来のことは分からないのだ。髪を耳にかけられてそちらを向くと、やはりキスが落ちてくる。
title by 喘息/160609