そんなに甘い声でぼくの名を呼ばないで
一人用のベッドとはいえ私の家にあるものとはサイズが違う。背丈のある彼が選んだものだからだろう。一人で目が覚めるのは大変心細いのだが、そんなことは彼には知る由もない。起き上がりいつも通りの肩の痛みに眉をひそめる。体の片側を下にする寝方は治したいのに無意識下の行動はそう簡単に治ってくれない。カーテンの隙間から入ってくる光に、まだ昼すぎだということが分かる。かろうじて足に引っかかっていたブランケットをどかしベッドから降りた。
嫌な夢でも見たのかもしれない。首筋ににじんだ汗を流していく。目が覚めた時の姿勢も。昨日は酔っ払ってここに放り込まれたんだったかな。殺しの後の酒は熱を高ぶらせ、治めるために飲み続けて、勝手に潰れる。記憶を完全に失うことはないがその分起きてからの後悔が大きい。その後悔を次に役立てればいいのに。制御できない悪癖が私にはたくさんある。
シャワーを終え部屋に戻る。下ろしていた髪を一つにまとめる彼の背中。周りの男たちと比べれば細いこの体でどうやって。気だるげな目が私を見る。それだけで、いや、これはシャワーの後の熱だ。目をそらし、タオルで髪の水分をとる。
「大丈夫かよ」
「何が?」
「飲みすぎだお前」
「……濡れるよ」
「さっさと乾かせ」
手が離れ、私は気づかれないよう息を吐く。この人には分からないだろうといつもたかをくくっては失敗するのだけれど。変なところ、いらないところだけ勘の鋭い男だ。ベッドの上にスーパーの袋。こんなのがうろうろしているような町なのだ、ここは。ドライヤーを手に取り、袋の横に腰掛けた。
依頼して部屋を借りたはいいものの、寝るための部屋になってしまっている。どうもあの小奇麗な何もない空間にいると落ち着かない。生活感を出すにはまだ時間がかかりそうだと思い、あそこから逃げるようにノブナガの家を探した。まさか私に探し当てられるとは思っていなかったらしい彼は驚いた顔をして、でも結局私の物を置くことも許してくれている。この人は身内に甘い。……ここだって、本当は何もない空間なのだ、と、熱風を防ぐために目を伏せる。
いつからだろうか。私も余計なところにだけ働く勘のせいで気づいてしまった。彼が自分の名を呼ぶ声だけが特殊であること、私への仕草が他と違って見えたこと、きっと私にだけ特別なのではなく、私にとっての彼がそうであるせいだということ。でも気づいたからと言って私にはどうすることもできなかった。怒らない彼に甘えてこうして出入りしているけれど、それだっていつまで続けていいものか。隣に座った彼との間には手を置くスペースもない。ドライヤーを片づけるために立ち上がる。入れ違いのようになってしまって若干気分が落ちた。
「」
「……ん?」
低い声。いちいち心音が跳ね上がる、それを隠せていると信じて振り返る。けれどいつまで経っても用事を言わないので仕方なく彼の隣に戻り、まだ水分の残る毛先をいじる。
「お前家あんだろ?」
「あるけど」
「捨てちまえ、んなもん」
「……えっ?」
捨ててしまえ。家を、あの部屋を、実際捨てたところで何の問題もないが、その言葉の真意がどうしたって私の都合のいいようにしかとらえられず、彼を見上げる。私が家を捨てることを勧めてどうしようって言うのか。目を合わされてまた熱が広がり、気づかれないよう俯く。そのまま沈黙は続く一方だ。これは私から何か言わないといけないのか。仕方なく顔を上げ、彼の横顔を視界に入れた。
「それ、どういう意味?」
「そんぐらい言わんでも分かれ」
「……じゃあ分かるけど、だからなんでそんなことになるの?」
「そこまで含めて分かれっつってんだ」
「無茶言わないでよ」
「ったくよお」
見ていると大げさにため息を吐き、後頭部に手を当てた。全く、はこっちのセリフだ。それを分かってしまってはいけないと思いながらここまで来たのに。この人はただ単に身内に甘いのではない。そして私がいくら風呂上りで薄着でも彼は手を出さないし、目を覚ました時に隣にいたこともない。名前を呼ぶ声が他の男と違うことも、私に対する仕草が特別に思えるのも、たぶん私が彼を心の一部、本来置いてはいけないところに置いているから、というだけじゃないのだ。
漏れるため息を抑え次に顔を上げた時ばっちり目が合ってしまって動揺する。いきなりだと隠すこともできない。駄目だって、そんな目、そらせないじゃないか。彼は体ごとこちらに向いた。膝頭がぶつかる。手が伸ばされ、肩口から首筋、そしてうなじに落ち着く。ポーカーフェイスが台無しになるくらいに心臓は叫んでいた。触れられ慣れていない体はびくついてしまう。ようやく目をそらすことができて視線を彼の首あたりでさまよわせた。
「顔上げろ、」
「ま、待って」
「何びびってんだ」
「びびってない」
「びびってんじゃねえか」
「違うよ、違うけどさ」
「ほお」
彼は人差し指で私のうなじを軽く叩いている。びびってなんてない。黙っていると人差し指の動きが止まり、気づいた時には親指が顎に当てられていた。でもそこに力が入れられることはなく待っているのだと気づく。たぶんしばらくしたら無理やり上げさせられるのだろう。別に嫌でそれを拒んでいるわけではないと彼は分かっているのだから。だからと言って、このまま痺れを切らすのを待つのはきっと得策ではない。
「あの」
「ああ」
「私こういうの初めてなんだ」
「へえ」
「別にびびってるわけじゃないからね」
「分かった分かった」
「……なにこれ、私今どうすればいいの」
「お前馬鹿だよなあ」
「うるさいな。混乱してるんだよ」
「顔上げりゃいい」
「そんなこと分かってる」
「上げてやんなきゃいけねえの?」
「そうなんじゃないかな」
「しょうがねえ奴」
少し力を入れられた段階で私は目をつむり、それに従った。すぐに触れるその熱は考えてみればただの唇なのにどうしてここまで心をかき乱されなければならないのだろう。感情のような重たいものは抱えるべきではなかったのに。ああ、頭まで心音が響く。髭が当たる感触がくすぐったい。これがこの人の。それは軽い一度で離れ、無意識に入っていた力を抜く。手は離れない。そこにまた焦りを感じる。焦り。いやこれは、羞恥か。
「、お前」
「な、なに」
「……今の顔見せてやりてえ」
「ひどいって言いたいわけ」
「ひどいっつーかなんつーか、なあ」
「……明日あたり荷物持ってくる」
「そりゃよかった」
「なんで手離さないの」
「なんでだと思う」
「……もう一回するの?」
「嫌か?」
「なにそれ……」
目を合わせてしまえばもう終わりだった。終わった、逃げられない領域に踏み込んでしまった。いいんだろうか。……誰かに許可を得なければならないことでもないはずなのに私は心の中でそう問いかけずにはいられない。それほどに、持て余してしまうような、どうしようもない思いだった。
title by いたみ/160331