なみだシュレッダー

 着信が一件。画面を見つめながら寝癖のついた後頭部を触る。外は暗く深い眠りが一瞬だったことを理解する。時計の音がただ静けさを許さない。
 はあ。口から漏れた息を飲みこむ者はなく、私はベッドから降りた。

 顔を洗いリビングに戻る。ちゃんと見るとやはりひどい有り様だった。何度目かも分からないため息と共にテレビのリモコンを手に取る。すぐにニュースが流れ出して、室内の静寂が明確に打ち破られる。とりあえず椅子に腰掛けてから空いたボトルをテーブルの端に寄せ、灰皿を引っ張り出す。幸い煙草は何本か残っていたので出かけたため息は戻っていった。

 私は何も悪くない。それは事実だ。しかしこの心労を生み出しているのが自分であるというのも事実。だからこうして色々なことが突然圧し掛かってくる。どうやって生きていけばいいのか、どうしてここにいるのか、なんのために生きているのか、分からなくなる。そうして一気に仕事を終わらせて、馬鹿みたいに酒を飲み、こんな風に最悪な気分で深夜目が覚める。
 彼としばらく会っていないと気づいたのはいつだろう。昨日か一昨日か、先週か、先月か。随分前から思っていたような気もするし、さっきだったような気もする。とにかく何も考えず、それこそ死ぬのではないかと思うほど仕事をしていた。一体私は何をしているのだろう。気づけばフィルターまで灰が伸びていて、いつもよりいくらか丁寧に火を消す。アナウンサーの声が少しだけ耳に残っている。

 ケータイが鳴った。今の一瞬意識を飛ばしていたらしい。こんな時間に仕事の依頼か、と思ってから、先ほど着信があったことを思い出す。まさか。相手を確認しようか考え、煙草に火をつけてから止まらない着信音をしばらく聞く。一度煙を吐き出してようやくその名前を認める。ため息のように煙が出ていった。

「もしもし」
『おう、悪いな夜中に』
「……急ぎの用でも?」
『いや……今飲んでんだけどよ、お前もし起きてたら来ねえかなと思って』

 テレビの電源を落とすと、認識できる音が電話の奥からかすかに聞こえるジャズのみになる。瞬きをする。煙草を持つ指が震えていることに気づく。

『忙しいのか?』
「あなた今どこに?」
『え? ……ああ、いつもんとこだよ』
「分かりました」

 返事を聞く前に電話を切る。つけたばかりの煙草を消し、両手で顔を覆う。どうしてこんな時に。じんわりと熱くなるまぶたを意識しないためにそこから手を離して立ち上がる。


 店に入るとすぐに彼の背が視界に入る。ぽつぽつ客はいるがこちらを気にする者はいない。泣いたことは気づかれてしまうだろうなと思いつつ彼の隣に座った。視線を感じながら、目を合わせないように鞄を下ろす。

「こんばんは」
「あ、ああ。……久しぶりだな」
「そうですね」
「仕事はいいのか?」
「ええ。あなたこそ、お勉強は?」
「今日は息抜きだ」
「よろしいのですか」
「まあ一段落ついたし、そんなことよりお前の顔見たかったからな」
「そうですか」
「相変わらず反応薄いな」
「あなたは気障ですね」
「うるせえ」

 ふっと体の力が抜けるのが分かる。何をそんなに緊張していたのだろう。この人に会うのが久しぶりだというだけで。  眠りにつくまでに相当飲んだはずだが、既に抜けきっている。便利な体だ。グラスが彼のものと触れ合い音をたてる。私と会って楽しいのだろうか。絶対に怒るから言わないけれど、そもそも本当に付き合っているのかも分からない。まあこうして誘ってくれるということは少なくとも好意を抱かれているのだろう。再び視界が揺らぎ、慌てて視線を彼のいない方へ向ける。

「なあ」

 気づいていないらしい彼は口を開く。ほっとしてはい、と答えると間が空いた。何かしら言いにくいことがあるのだろうことは分かる。どの程度の間が空くかは分からないのでとりあえずアルコールを流し入れる。

「お前、一人で大丈夫か?」

 グラスを持つ手が止まる。彼を伺えばすぐ目が合ってしまい、なるべく自然に逸らした。そこでかたと音がして、自分がグラスを置いたことに気づく。頭が混乱している。

「電話中煙草吸ってただろ」
「……よくお気づきで」
「俺が心配してんの分かってんのかよ」
「ありがたいことだと思ってます」
「分かってねえだろ、それ」
「何を言いたいのかは分かりませんね」
「今日は俺ん家に泊まれ」
「……はい?」

 彼を見上げる。彼がグラスを置く。スローモーションで再生されているようだった。グラスを持っていたはずの右手が温かい。目が合う。驚いているのだ、私は、と思う。この人、私のこと好きなんだ、と、思う。

「お前のこと泣かせねえって言ったからな」
「……泣いてませんよ」
「その目でよく誤魔化せると思ったな。また色々考え込んでたんじゃねえのか」
「何をおっしゃっているのか」
「俺を頼れっつってる」
「お忙しいでしょう」
「お前がつらい時に勉強するほど馬鹿じゃねえ」
「私はそんなに心配されるほど子供じゃありません」
「好きな女のことぐらい心配させろ」
「……レオリオ」
「なんだよ」
「顔が真っ赤ですよ」
「はあ?! お前、今いいとこだったのに!」

 手を握る力が強まる。全くかわいらしい男だ。そうしているうちにいつの間にか涙は引っ込んでいた。とにかく、と彼が言う。

「明日何もねえなら泊まってけ」
「分かりました」
「よし」

 年上の女だと本当に分かっているのだろうか、優しい彼の手が一度頭を撫でて離れていく。……年下の男に心配させているのは私か。未だぬくもりの残る右手を頬に当て、私は嬉しいらしい、と理解する。



title by 喘息/160906