いい夫婦の
何も言えず私を見ている男の顔に、あ、驚いてる、と思う。感情が混ざり合って混乱状態に陥ることがある。大抵の場合それは唐突に涙があふれることで表に出る。治まるのも急で、何か大きなきっかけがあるわけではない。それが三度起きた後、私の中でその現象は名前を持つこともなく落ち着いたのだが、よく考えればあれは全部一人でいる時だったし、気にしていなかったから話したこともなかった。目をそらす。
「?」
どうにかそれだけ言ったという風に男が呟く。涙は止まらない。テレビに目を向け、私も今声を出せないでいると気づく。
違う、と思った。でも言えないし、何が違うかの説明もできない。気にしないでくれと言ったってこの男にそれが無理なことくらい分かる。苛立ち。ああ悲しいな、だって私には何も理解できない。私なんて何人もいる。この世界で分かることなんて私が今ここにいるという事実だけだ。そしてそれすら危うい。この人が、一緒にいてくれるのが、事実なら嬉しいのに。笑い声が喉から漏れ出る。おかしい。
「おかしいよね」
「……ああ……お前」
「別に、そういうことじゃないの。ふふ……ちょっとびっくりしただけ」
「びっくりした?」
「うん、そう。悲しくて」
「何がだ」
「全部」
ぜんぶ、もう一度口を動かす。私は全部が悲しくて腹立たしくて嬉しくて、楽しい、それから全部を愛している。立ち上がり、洗面所に向かおうとして、足の力が抜ける。
「おい!」
倒れる前に抱きとめられて、そのままベッドに運ばれてしまう。涙も嗚咽も止まっていた。隣に座った彼はきっとどうしていいか分からないのだろう、ただ私の背中に手を宛がっている。熱い。そういえば、私には他にも分かることがあった。いっぱい。部屋着のズボンは裾がぼろくなっている。太ももの間に両手を挟み、ゆっくり息を吐き出す。
頭の中が元通りになっていく。私は今ここにいる。もう私は私でしかないのだ。なんでこんなに瞼が熱を持っているのだろう。瞬きの合間に先ほどのことが夢だったかのように思えてくる。
「ノブナガ?」
「なんだ?」
「ノブナガここにいるんだよね」
「はあ? いるだろ、どう見ても」
「うん……」
ようやく私は顔を上げることができる。不可解そうな表情をしていて笑ってしまう。その細い胴に腕を回して抱きつく。硬い。いつもと同じ。頭を撫でてくる手は大きく骨ばっている。同じ。いつもを思い出していく。急に涙があふれる時、治まってからこの人に会うと不思議な気持ちがしていたことも。体を離す。
「なんで泣いてたんだ」
「たまにあるの、わけわかんなくなること」
「理由があったわけじゃねえんだな」
「うん。だから気にしないで」
「びびらせんなよ、ったく」
「ごめんね。結婚したくなったわけじゃないから」
「……そりゃあ、よかった」
「あはは、だから何も言えなかったんでしょ」
「うるせえ。あのタイミングで泣き出したら誰だってそういうことだと思うだろうが」
テレビに目を向けると、ちょうど先ほどまでの特集が終わったところだった。もしかしたらあれが直接的なきっかけだったのかもしれない。結婚できないことに対して悲しいだとか腹が立つだとか思ったことはなかったけれど、どこかで負い目を感じていたのかも、とは思う。だから泣いたとまでは言わないが。
結婚なんてする必要はないのだ。できない立場から言うと負け惜しみみたいになるから口には出さないけれど、一緒にいられればそれでいい。終わりは必ず来る。その重みを分かっている。だからこれで大丈夫だ。テレビを眺める横顔に垂れる長い髪を避けるように、頬に触れる。目が合って、これはどうしようもないな、と思う。
「ね」
「あ?」
「ふふ」
目を閉じる。軽く触れるだけの唇。笑いながら首に腕を回すと、抱きしめるように体を支えられ、そのままベッドに倒れた。