寝起き
あの時、天使と共に白い空間も少女の私も消えてしまった。全てが大きく変わってしまったせいでその事実に対して何も思わなかったものの、たまに夢に見る。それが本当に夢なのか、自我が語りかけてきているのかは分からない。少女はよかったね、と言う。私はその意味を理解している。でも何かが不安なのだ。……よかったね、よりも、嬉しい、と言ってほしい、のに。そう思うのはおかしいことだろうか。
まるで自分が分裂しているかのような違和感がある。天使化の後遺症とでも言おうか。突然別人になった気がする時がある。天使化していた時の私の精神が現れて、元々の私を見ているのだ。そして夢では私が少女の私を見ている。今、ここにいる私は、誰なのか。たぶん放っておけば治る。それぞれの過ごした時に差があるせいでこうなっているのだとすると、今の私がそれなりに落ち着けば、きっと。
揺れる光に意識が覚醒する。朝。頭を撫でられているようだ。ゆっくりと骨ばった手が頭蓋をなぞり、髪を通っていく。なんだか暗い夢を見ていたような気がしたけれど、もう忘れてしまった。しばらく私はその手の温かさに浸る。
静かで穏やかな時間。ただ二人分の息遣いが聞こえて、その距離に安堵する。自分の手に握られているのが男の服だということに気づくが、もう少し離さないでいたい。
頭を撫でていた手が頬に滑る。そのまま顔を上げさせられ、私は目を閉じる。知ったばかりの感触が唇に与えられる。これは、知ってよかったものだ。
「気づいてたの」
「そりゃ気づくだろ」
「おはよう」
「ああ。寝れたか?」
「うん。待ってたの?」
「お前が離さねえからな」
「ふふ」
「なんだよ」
「なんでもない」
服を離すとしわになってしまっている。そこから視線を外し、ノブナガの首に腕を回す。彼は上半身を起こして私の後頭部にまた手を当てる。薄い唇だ、と思う。手に比べればあまり温かくもない。私は首に腕を回したまま少し起こしていた体をベッドへ落とし、濡れた唇で笑った。
「朝から煽ってんじゃねえよ、おめーは」
「だってキスしたいじゃん」
「はーあ、ったくよお……」
「眠いからセックスはやだけど。あはは」
「俺だってこんな朝っぱらから体力使いたくねえっつの」
片腕が頭の下に回されている。この人は他に比べれば細いけれど、この程度なら心配にはならない。笑ったまま軽く触れ合う。
私は何も知らなかった。人との接触に意味があるということも、それだけで心が満たされたように感じるということも。感情が存在するから理解できることだ。目の前の男に全てを明け渡せるしキスもセックスもその手段の一つなのだろう。想像上の出来事でしかなかったそれらをこの人としているというのがたまらなく嬉しい。
唇が離れる。顔にかかった髪を彼の指がどかす。彼は彼で長い髪を耳にかけた。その仕草が好きだ、と思う。
「」
「ん?」
「夢なんて忘れろよ。夢は夢だ」
「……なんで分かったの?」
「うなされてたんだよ」
「ごめん。それで起こしちゃった?」
「いや。だがまあ、俺の横で寝てる癖にうなされてんのは気に入らねえな」
「あはは、うん。そうだね」
ノブナガが体を起こしたのに合わせて私も起き上がる。ついでに抱きつくと小さくため息を吐いた後、膝の上で抱き抱えてくれた。
「子供だな」
「やだ?」
「嫌じゃねーよ、馬鹿」
「ふふ。これ安心する」
「そりゃよかったな」
肩口に頬を置き、目を閉じる。うなされるような夢だったのか。もしかしたらまた、天使と自我の出てくる夢を見たのかもしれない。うなされるような夢を見る覚えはないのだけれど、やはり一度自分の中で悪いものに分類されてしまうとその意識を変えるのは難しいらしい。
頭を撫でる手つきは優しい。失った能力は惜しい、天使との思い出を今までのように大事に思えなくなったのも、少しだけ。けれどこの安心感を得ることができたのはあれを失ったおかげだ。ならばこれで正しい。私は温もりをもう手放したくない。
「腹減った」
「んーもうちょっと」
「はあ……」
「嫌じゃない癖に」
「嫌じゃなくても腹は減るんだよ」
「私もお腹空いた」
「じゃあ離せ」
「お腹は空いてても離したくない」
「ガキ」
「キスしてくれたら離れる気になるかも」
「アホか」
「したくないの?」
「そうじゃねえ」
「じゃあなに」
「おめえは離れるためにキスすんのかよ」
「あはは」
顔を離すと顎に指がかけられ、それに従って彼を見つめる。呆れと喜びと、他にも色々な感情が絡み合っている表情にまた笑いが込み上げるが、声に出すことはできない。隙間から息を逃がす。
「声出すなよ」
「そんな出してる?」
「あー、出てる」
「うるさい? ごめん」
「ちげーよ。俺が困る」
「困るって?」
「抱きたくなるだろ」
「あはは! そっか。大変だね」
「てめえは気楽だな……」
笑いながら彼の膝から降り、一度ベッドに座ってから床に立つ。めんどくさいからスーパーまで行って何か盗ればいいや。あくびが出た。ノブナガが髪を一つに結んでいるのを横目で見て、同じことを考えているらしいと察する。外に出るなら着替えなければ、と思い引き出しを開けた。