きらきらメルヘン

 窓の外は灰色に支配されている。三好さんから約束の時間に遅れるという連絡が来た時、私は天気予報を見ていた。遅れるも何も一時頃に行くと言われていただけだったので、一時を過ぎたところでなんの問題もないのだが、彼の中であれは一時前に着くという意味だったのだろう。真面目な彼の顔と、冷蔵庫にある紅茶の残量、今朝掃除した水回りのことを頭に浮かべ、テレビに意識を戻す。今日も明日も一日雨、アナウンサーの声にため息が漏れる。
 一時を十分ほど過ぎた頃、インターホンが鳴って私の心臓は飛び上がった。紅茶が記憶よりも減っていたのを見て慌てて別のポットを引っ張り出し、ティーパックを入れたところだったので(理由になっていないのは百も承知だ)、より驚いた。びっくりしたがりなのだ。馬鹿みたいなことを考えながらどうにか玄関まで行って、ドアを開けると、白い靴紐が見えた。

「こんにちは」
ちゃん! 遅くなっちゃってごめん」
「ううん。どうぞ」
「お邪魔しまーす」
「傘そのへんに」
「おけおけ、ありがと」

 彼を室内に案内してから、先ほどの作業の続きを済ませる。水を入れていると荷物を置いた彼がこちらに来て、袋を差し出してきた。

「じゃーん!」
「なにこれ」
「ケーキ好きでしょ?」
「え、ありがとう、どうしたの?」
「一緒に食べたくて買ってきちゃった」

 いつものように明るい口調でそう言う彼に、戸惑いながらそれを受け取る。これを選んでいて遅れたということなのだろうか。それなら随分かわいらしい理由だ。袋には水滴がついている。鼻歌を歌いながら手を洗う彼を横目に、袋からケーキの箱を出した。中を見たい衝動を堪えて冷蔵庫を開ける。

「三時になったら開ける」
「あはは、オッケー」

 嬉しそうに頬を緩める三好さんにこちらまでほっとしてしまう。久しぶり、と言っても一か月ぶりくらいだけれど、なかなか都合が合わなかったために会えずにいた彼がここにいることが、素直に嬉しい。流し台の下にかけてある、手を拭くためのタオルを見て感想を漏らす彼の横顔を見る。なんにでも感動を示す人なのは昔から変わっていない。

「この柄きゃわたん!」
「ブランド買いだよ」
「あ、やっぱ? 似てると思った」
「似てる?」
「スマホカバーと同じとこっしょ」
「あー、そうそう。揃えるつもりはないんだけど、見るとつい買っちゃう」
「分かるわー」
「お茶持ってくからあっちで待ってて」
「うい!」

 私が無意識のうちにあの人に合わせているのか、元々合うのかは分からないが、彼はよく私の持ち物を褒める。そもそも大体のものをポジティブにとらえようとする人ではあるが、それでもそのものを褒めるだけなのと彼の好みなのは別だ。その違いが分かるようになったのは残念ながら最近だけれど。
 グラスにポットの中身を注いでリビングへ戻ると、彼はハットを机に置き、何やら鞄をごそごそ漁っていた。ちらと目をやったテレビでは、お昼の情報番組がここ一週間のニュースを流している。

「あ、サンクス!」
「どいたま」
「どいたまどいたま! あ、これ、こないだ貸すって言ったやつ」
「ああ! ありがとう。すぐ返さなくて大丈夫?」
「大丈夫だよん、ゆっくり見て」
「分かった」
「あ、俺が好きなのはー……って言わない方がいい?」
「いや、教えてください」
「ちょ、敬語! もー、じゃ、ちょっと貸してください」

 おどけて笑う三好さんに、受け取ったばかりの写真集を返す。特別そのモデルに興味があったわけではないが、たまたま見つけた写真の話をしたら、三好さんも好きで写真集を持っていると言うので、借りる運びになったのだった。もう何度も読んだのだろう、すぐに目的のページを見つけ、彼はそれを指さした。

「これこれ」
「うわあ……すごい」
「コメントもこの人がやってるんだけど、こんなの、俺らとそんなに変わらない子が考えてるんだなあって思ったらさー」
「二十歳とかでこれだけ……」

 一枚の写真と、そこに添えられた短い言葉に見入ってしまう。すっと周りの音が遮断され、一人の空間に閉じ込められた感じがした。ここではないどこかへなんて、行けない。絶望的ともとれる言葉から感じ取れるのは何故か希望だ。一筋の光と言ったらいいだろうか。ちゃん、という静かな声が私を私の部屋へ引き戻す。顔を上げ、音のない空間が破壊されるのを確認すると、三好さんと目が合った。ここではないどこか。彼の大きな瞳が瞬いて、私は口を開く。

「すみません」
「え? あ、いや、こっちこそ止めちゃってごめん!」
「それは……全然構わないけど。じゃあこれ、ありがたく」
「うん」

 三好さんはほっとしたように肩の力を抜き、微笑んだ。何か言いたいことでもあったのだろうか。まあこれは大きなことではないだろうからいいか。知り合ってからもう四年ほど経つが、いつも笑っているのは誤魔化しのためでもあるのだと気づいたのはいつだろう。少なくとも今の関係になる前は全く分からなかった。それだけ私に心を許してくれているということなのか、私が前よりも見ているだけか。でも、ただのちゃらちゃらした人ではないのだろうということは少し接すれば分かった。今のような時、私が突っ込む場合とそうでない場合の違いを、たぶんこの人は理解しているのだろう。立ち上がり、受け取った本をテレビの横の本棚にしまう。ふと窓に目を向けると、雨粒が見えた。

「結構降ってた? 来る時」
「んー、ぱらぱらって感じー、夜本降りなるかも」
「じゃあ早めに帰らないとね」
「そーだね」
「帰ってほしいんじゃないからね」
「えっ、分かってるって!」
「分かってると思うけど、こういうのは言っとかないと」
「てかちゃん帰ってほしかったら言うっしょ?」
「うん」
「だから平気! マジで」
「分かった」

 傷つくということ。傷つけるということ。元いたところに戻り、テーブルの上のグラスを手に取る。一目惚れして買ったグラスで、付き合ってから初めてここに来た三好さんが褒めてくれたものの一つだ。飲み慣れた紅茶の冷たさが少し甘く感じる。馬鹿みたいだけれど。
 それからだらだらと大学のことを話し、特段やることを決めていたわけではない私たちは、近くのレンタルビデオ屋に行くことにした。恋愛映画はあんまり、だとか、アクションはすっきりするから、だとか。シナリオの好みはそんなに合わないのだろうけれど、好まないものは合致している。そうして適当に三本チョイスした帰り、夕飯のためにスーパーに寄る。

ちゃんの料理久々! 楽しみー」
「今日はちょっと寒いからシチューでも作ろうかなと思って」
「マジ?! テンション上がる!」
「そんな好き?」
「シチューってなんかよくない? 家でしか食べられないっていうかさー、人と食べるものって感じでー」
「まあ、なんとなく分かるけど」

 外だからか、先ほどよりも声のトーンが高い。シチューなんて凝ろうとしなければ比較的簡単に作れるものだ。というか、毎回私が作るものなんてそのレベルのものなのに、本当にこの人の喜びようには感心してしまう。話しながら、三好さんの持つ籠に食材を入れていく。実家から送られてきた米があるが、パンの方が雰囲気はいいだろうか。いや、あんまりこちらがそういう風にすると身構えそうだな。インステとか言い出しそう。にんじんを持ちながら考えていると、そんなに質違うのと困った声が降ってきて、我に返る。
 帰り道、時間を確認するとあと十五分ほどで三時になるところだった。そうだ、今日は帰ったらケーキがある。三好さんが選んだケーキ。通知を消し、スマホをポケットにしまう。雨。傘。嫌な静けさだ。いつもよりも遠い声を私はなんとか受け止めていた。
 マンションに着いて、水の滴る傘を閉じる。右手が濡れて少しだけ不快だ。階段でもよかったけれど面倒だったので、エレベーターを待ちながら隣の彼を見上げる。すぐにこちらに気づいた彼から今度は目を逸らし、扉の奥の鉄線が動くのを見つめた。

「どしたん、ちゃん」
「嬉しい」
「え?」
「こういうの」
「こういうの? え、買い物?」
「惜しい。でもいいよ、それで」
「ええー? 気になるじゃん!」
「考えれば分かることだよ」
「マジで」
「うそ」
「ひど!」
「ほら乗って」
「ああーレディーファースト!」
「なにそれ……」

 部屋に入ると生温い空気に出迎えられる。この時期は外の方が涼しい。食材を冷蔵庫にしまってくれている彼を横目に窓際まで行き、換気のため窓を開ける。火照った頬を冷やすように少しの間そこから外を眺める。大学生同士、同棲なんて大それたことをしたいとは思わない。でも三好さんがいつもいてくれたらいいのにとは考えてしまう。そしてそれは、私が言い出してはいけない類のことだった。断るために彼は私の想像以上の労力を費やすだろうから。いいのだ。年がら年中一緒にいる必要なんてない。私にだって見られたくないところはたくさんある。網戸を閉めてキッチンに行くと、音に反応してか、冷蔵庫のドアから彼が顔を覗かせた。

「ついでにケーキとってもらえる」
「おけー」
「あ、あとお茶も、その右側の」
「うぇい!」

 話しながら、適当な平皿を出す。残念ながらケーキ用のオシャレな皿なんてないので、少し大きめのものになってしまうけれど、代わりに衝動買いしたかわいいフォークならたくさんある。一人暮らしの家のキッチンは狭く、そこで箱を広げるのは得策ではないように思えた。それを理解したのだろう三好さんは私が食器類を出したのを見て、テーブルの方へと戻っていく。別に私はひどい面倒臭がりというわけではないが、三好さんのこういう行動には助かっているし一緒にいて楽だ。すれ違いがないからなのだろう。それに続き、テレビの電源を入れるとちょうど台風情報をやっているところだった。

「うわー、やば! こっちいつ来るんだろ」
「逸れるといいね」
「それなー」
「開けていい?」
「どうぞどうぞ! むしろ開けて!」
「はいはい」

 お店のロゴが入ったシールを剥がし、箱を開く。四つ。最初に目に入ったのは赤い球体、たぶんラズベリーとかフランボワーズあたりだろう。それから上に生クリームの乗ったモンブラン、かわいらしい装飾が施されたレモン色のもの、黒っぽいピラミッド形のもの、これはたぶんチョコレートだ。思わず、情けない声が漏れる。ポケットに入れたままだったスマホを引っ張り出し、勢いよく膝立ちになった。

「うわっびくった」
「すごいんだけど!」
「ええ、めちゃテンアゲじゃん?! 撮っていい?」
「ケーキを撮って」
「ですよねー」
「すごい、ほんとに嬉しい。かわいい。すごい」
「ちょ、うーん、すごいのはちゃんかなーって」
「三好さんセンスがいいし大好き」
「現金!」
「やーマジマジ」
「マジかー」
「どれ食べる?」
「俺好きなのしか買ってないから、選んでいーよ」
「マジで?!」
「爆アゲじゃーん!」

 心底楽しそうに笑う三好さんにこちらまで楽しくなってくる。家でこういうちゃんとしたケーキを食べるのは久しぶりだ。どれもかわいい。ケーキってどうしてこんなにかわいい上においしいんだろう。最高の食べ物だと思う。どうせこの感じだと二個食べても怒られないだろうし、と赤い球体と黄色いものを選び取る。皿の上に出して再びスマホを手にし、どうにかいい感じに撮ろうと頑張っていると、三好さんは苦笑しながら残りの二つを取り出した。

「いただきます」
「召し上がれー」
「これ崩すのもったいないなあ」
「分かる、ちょーきゃわで思わずさ」
「さすがです」
「こういう時だけ敬語出すんだから!」
「尊敬してるのはマジなのでー」
「ずるいなー」
「三好さんも食べなよ」
「だね」

 二人してフォークを取り、それぞれの一つ目に刺しこむ。私は赤いの、三好さんはモンブラン。柔らかい感触と共に茶色と赤の断面が現れ、零れそうになるかけらを口に運ぶ。

「うま」
「うま!」

 顔を見合わせ、二人で笑う。こんなくだらないこと、でも私にとっては大事なことで、たぶんこの人にとってもそうなのだ。だから笑う。のだと思いたい。かすかな雨音に包まれた、国会のニュースの流れる部屋、恋人と二人でかわいいケーキを食べている、意味。小さいそれを食べきるまではあっという間で、もったいないと思っていたって食べ始めたら止まらないのだとぼんやり思う。甘酸っぱいフランボワーズとチョコレート味のスポンジが舌に残っていて、グラスの中のお茶を口に含んだ。三好さんを盗み見て、薄茶色のクリームがその口に入るのを眺める。整った顔だといつも思う。高校の頃、確かにこの人はモテていた。それなのに卒業まで相手を作らずにいたのは、臆病だったからというだけなのだろうか。泣きそうな顔をした三好さんに敬語の抜けない私が告げる場面を、今でもたまに思い出す。テレビに視線を戻すとどうでもいい芸能人の不倫の話だった。夢を見ることはいつまで許されるだろう。恋とか、愛とか、優しさ、正義、誠実、欲望へのカウントダウン。しばらく画面を見つめてから二つ目に着手する。

「これ有名なとこだよね」
「そー、御用達? 的な」
「お土産の? 奥様の」
「かな?」
「めっちゃおいしいね。かわいいし」
「あはは、ほんと気に入ってんねー。今度も買ってこようか?」
「いやいやいや、これは特別なやつ」
「あー、理解!」

 不倫発覚後の謝罪会見を長々と見せられながら私はレモン味を咀嚼する。特別な風景ではなくなった方がいいのだろうけれど、今はまだこの雰囲気を大切にしたかった。今日の夕飯はシチューか。昨日はファストフードだったなと思い出す。誰かのためにメニューを考える方が健康的だし、健全だ。
 黙々とテレビを見つつケーキを食べ終えた私は、皿の上にフォークを置く。ふと三好さんの長い沈黙が気になってそちらを見ると、何を考えているのか、テレビを見つめていた。

「三好さん」
「……えっ? あっ、なに?」
「え、いや……何見てるのかなと」
「ニュ、ニュース」
「深く突っ込んでいいですか」
「んーっとね、あー、あは、そんな大したことじゃないよ? 怖い顔しないで」
「してないけど、じゃあ私はテレビの方見てるから教えて」
「マジ?」
「うそにしてほしい?」
「ずるい」
「まさか」
「もー……」

 テーブルに肘を置き、ようやく次の話題に移った番組を見る。言いたくないことなのだろう、そんなことは顔を見れば分かる。でも状況と反応から考えて十中八九私に関することだろう。三好さんは人と一緒にいるのにぼんやりすることがほとんどないから。んーだとかあーだとか唸っていた彼は、それを繰り返したのちようやく、さっき、と言った。

「さっき、声かけたじゃん」
「え、いつ? どれ?」
「えーと、写真集見てる時」

 ああと返事をしつつ、そんなに前のことを考えていたのかと半ば呆れてしまう。時々垣間見えるこの人の繊細さに私はいつも驚かされる。

「ほんとは俺、ここではないどこかって行けるんだと思う」
「と言うと」
「あの子は行けないって言ってたし、そういう世界を俺は美しいと思ってて、だからあの子を好きなんだけどさ」
「うん」
「それに、本人の努力でどうにかできるものじゃないんだよね。たぶん。だからさ……でも……俺はたぶん」
「……たぶん?」
「……ちゃんが連れ出してくれたのかも?」

 びっくりしたがり、とかなんとかって、思った記憶がある。まさか。まさかそんなことを言われるなんて思ってもみなかったらしい。思わず彼を見てしまった。え、と呟いた口から続きが出てこない。目が合うはずもなく、それを分かっていたから、私は不自然に笑む彼から目を逸らさずにいた。

「たとえばー」

 彼は落ち着かないという風に身を乗り出して、テーブルの上のグラスを手に取った。赤みがかった茶色の液体がその中で揺れ、彼の手を照らす。

「俺ほんとにかわいいと思うんだよね、タオルの柄もスマホカバーも」
「え、うん」
「恋愛映画すっごい好きってわけでもないのも分かる」
「そうだね」
「シチューも好き、君の手料理ってほんとおいしいしさ」
「え……どうも」
「で、このケーキもね? そりゃ君に喜んでもらえたらなーっていうのはあったけど、俺がいいと思うものだけ選んだんだよね」
「だろうね」
「そしたらめっちゃ喜んでくれたじゃん。そういうのがさー、全部……なんか……輝いて見えて?」
「輝いて? 見えて?」
「あーっもう復唱するじゃん!」
「えっそりゃしますよ」
「恥ずいんだってば!」
「それ言おうとしてたの? あの時」
「だから言わなかったんだよ……」

 いつの間にか耳まで真っ赤になっている三好さんは両手で顔を覆った。ただ素直にすごいなあという感想が浮かぶ。こんな人だと思わなかったなあ、とも。つまりこの人は私のおかげで今までにない世界に来ることができたと言いたいのだろう。新しい世界だから輝いて見えるとかいうこと。恥ずかしいのはこちらも同じだ。そしてあの時、エレベーターの前で私が言おうとしたのはたぶんこういうことなんだなと思う。なんとなく嬉しいなとしか思っていなかったけれど。

「えー、だ、だからー、よかったなって。ちゃんと会えてっていうか」
「あ、ありがとう……私もあの時告ってよかったなって思った」
「その節はどうも!」
「はい」
「……はあー……特別かあ」
「特別?」
「って言ってたっしょ?」
「ああ、ケーキ」
「うん。俺とだからだったりするのかなあってちょっと、思ったりしたら」
「そうだよ、そこは自信持って」
「え、あ、ありがと!」

 照れ笑いから段々と穏やかな笑顔に戻っていく彼に、私も微笑みかける。雨は止まないしニュースは暗いものばかりだけれど、ここが、三好さんにとっての「ここではないどこか」になれたのだとしたら? 掴んだグラスの中身はもうすっかり温くなっていて、テーブルには丸い結露が残っている。しばらくしたら、耐え切れなくなった三好さんは借りてきたやつ見ようかって言うだろう。それまで私はこの生温い沈黙の空気には触れずにいよう、と決心する。



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