つかまった

※「ジェントルマンショコラ」後if


 一度のそれですっかり思考は混乱し、体の熱は明確になっていた。唇が離れしばらく手を顔にあてる。熱い。こんなことしちゃ駄目なのに。だって私には。でもこれが正解なのかもしれない。このまま流される方が、傷つかないで済むのかもしれない。そんなわけがないことは分かっていた。それでも今くらい。でもこいつは友達だ。でも……。

「ちょ、ちょっと待ってってば」
「終わりにする?」
「……なにその聞き方、……なによ、ほんと……」

 触れられた手に焦って思わず振り払う。その左手をつかまれ、手首から奴の温度が伝わる。右手が知らず自分の服をぐちゃぐちゃにしている。それに気づいて服を離し、ソファーに手をついた。ヒソカは黙って私を待っている。……選ばせたいのだ、きっと。私が自分から求めるように仕向けている。手首から指先に手が移動する。人差し指。分かりやすく体が反応してしまう。目が離せなくて、だから無理やり視線を外す。中指に奴の親指が滑る。心臓が破裂しそうだ。薬指。指輪が外される。終わった、と思った。もう無理だ。もう……。結局目はその手の動きを追ってしまう。指輪はいつの間にか消えていて、ちゃんと指が絡む。男の手だ。大きくて、骨ばっている。太い関節。たぶん元々骨が太いのだろう。爪が長いのはいただけないな、と冷静に考える。この指じゃセックスはできない。流れるようにメスの思考をする。そうして一瞬現実から離れた合間に、奴の絡んでいない方の手が私の髪を耳にかけた。いけない。思考を飛ばしている余裕はない。
 ゆっくりとヒソカが手を離し、私はただ自由になった左手を見つめる。たったこれだけの時間で自分の手ではなくなってしまったような気がした。目を伏せて嘆息する。涙は止まっている。単純に顔が熱くて、でもまだまぶたも熱を持っていることに安堵する。目を開ける。ソファーの背に肘を乗せ、足を組んでいるのが見える。敵わない。どうしたってこいつの余裕を崩すことはできない。そこに悔しさを覚えると同時に、喜びもじわじわと広がる。
 だらんと垂れ下がっている肘から先を見ていたら、いきなりその手元にトランプが出現してつい素の声が漏れる。笑い声。腹が立つ。広げられたトランプを指先でまとめると、次の瞬間には一枚になっている。表にする。ダイヤの四。ヒソカが指先を振ると再び束になっていて、全てのマークの四が並んでいた。……見とれてしまった。なにそのすごいやつ。よくトランプで遊んでいるのは見ていたが、ちゃんと手品みたいな流れを披露されたのは初めて……いや、初対面の時以来か。ちらと顔を見る。いつもの笑顔。もう一度ため息を吐いて、テーブルの方に体を向け、グラスに口をつけた。煙草が吸いたい。狭いがここにもベランダらしき空間はある。鞄から煙草を取り出し、立ち上がった。

 ベランダには私が捨てた吸殻がいくつも落ちている。それらを靴でつっつく。汚い。空はまだ雲がかかっているが、大分晴れた。散々泣いてすっきりした気がする。よく考えたら酒を入れておいて酔いが完全に回る前に煙草を吸うなんて、酔うのを早めているだけだ。すっきりしたのではなく、思考停止。いやすっきりしたのも事実ではあるが。ああ、酔っている。指先が冷え、感覚がなくならないように閉じたり開いたりする。そこに見慣れた指輪はない。心拍数が上がる。さっき起こったことを思い出す。大したことは起きていない。でも何もかも自覚してしまった。

 部屋に戻ると変態がトランプタワーを作っていた。あれ崩したら怒られるだろうか。と思っていたら自分で崩した。子供かよ。

「ねえ、さっきのどうやったの?」
「秘密」
「えー」
「種も仕掛けもないよ」
「嘘つけ」
「奇術師に不可能はないの」
「それ意味わかんないから」

 元いたところに座り、煙草をしまおうとして、まだ吸うかもしれないしなと思いテーブルに置く。そのついでにグラスを取り、カクテルを飲み干した。まずいかもしれない。あまり量はなかったからまだ大丈夫だが、これでワインを何杯か飲んだらさすがに気持ち悪くなりそうだ。ワインとは相性がいいのかいつも結構飲んでもほろ酔いで済む。だから何杯かは平気だろう。
 酒に意識を向けていたらますます熱を感じた。酔いが回っている。こいつの前で幼児退行するまで飲んだことはない。やばい。もう飲まない方がいいかな。

「酔ってる」
「……そうね、酔ってるみたい」
「いつもそんな量じゃ酔わないのにね」
「ウイスキーでしょ」
「苦手なんだっけ」
「分かっててやったんじゃないの」
「まあね」
「そういうとこほんとに嫌い」
「冗談だよ」
「嘘つけ」
「うん、嘘」
「わけわかんないわ」
「そうだろうね。君単純だから」
「あんたが複雑すぎる」
「信用ないなあ」
「そんだけ嘘ついてて信用されるとでも思ってんのか」
「でも本当のことだって言ってるよ」
「全部嘘だったら全部ほんとのことみたいなもんじゃん。そりゃほんとのこと混ぜて喋んないと嘘も信憑性がさ……もう何言ってんだかわかんない……」
「うん」

 落ち着かなくて煙草の箱を触る。本数を確認する。ふたを閉じてから、何本だったっけと思いまた開く。七本。箱を傾けるとライターが当たり音が鳴る。ヒソカの方を見ると、笑顔がなくて驚く。こいつだっていつもいつもあの笑顔なわけじゃないんだ。当たり前のことを再認識する。目が合う。すぐにそらす。

「目見るの嫌い?」
「……まあまあ嫌い」
「なんで?」
「見透かされてるみたいで」
「目合わないくらいで隠せてると思う?」
「……」
「拗ねないの」
「拗ねてない。あのさ、そういえばこないだ、あんたと付き合わないみたいな話したでしょ」
「したね」
「いつ殺されるかもわかんないって言ったけど、そうじゃなくても嘘ばっか吐くような奴と一緒にいるのは無理があるなって思った」
「どうして?」
「どうしてって、何が本当のことだかわかんないの普通は不安だからね」
「困ったなあ。嘘つくななんて」
「つくなって言ってないじゃん。つくんだから付き合えないって言ってるだけ」
「本当に、僕が嘘をつかなくなってもいいの?」
「なにそれ? 嘘つかないなんて無理でしょ、あんたには」

 なんかこれじゃ煽ってるみたいだ。気づいて謝ろうかと思ったが、別にひどいことを言ったわけでもないし、こいつがこの程度で感情を動かされるとも思えない。

「ねえ」
「何よ」
「こっち見て」
「なんで」
「君にだって、僕が嘘をついているかどうかぐらい見れば分かるよ」
「分かるわけない。どんだけ自分が嘘つくのうまいか分かってないの?」
「君はいつもだまされようとしてるだけだ」
「違うわよ」
「見なくても嘘かどうか判断できるなら、それでも僕は構わないけど」
「……あんた何言おうとしてんの?」
「大事なこと」
「はあ、大事なことね」
「酔ってると判断力失うでしょ?」
「……まさかとは思うけど、判断力失った状態の私に大事なこと言おうとしてる?」
「そうだよ」
「なんでわざわざそれバラしちゃうんだか」
「嘘つくなって言ったの君だろう」

 その言葉だけ明らかにトーンが違い、心音が騒がしくなる。実際、こいつがいつ嘘を言っているのかなんて考えたこともないし、どの程度嘘だったのかも分からない。だがここまでの演技をできてしまう男だとは思う。私がだまされようとしているだけだって? ヒソカがだまそうとしているんだからだまされてしまうに決まっている。見破れるほどの洞察力はない。いや、あるのかもしれないけれど、使ったことがない。まあある可能性に賭けて試してみる価値はあるかもな……。判断ミスも酔いのせいにすればいいんだ、たぶん。
 前かがみになっていたのを起こし、ソファーの背に寄りかかる。ヒソカを見つめる。なんだか若干首を傾げるような動きをしてから、視線を外された。あんなこと言っておいて自分から目をそらすなんて卑怯だ。

「君が僕のことを好きなのは知ってた」
「……で?」
「とりあえず遊んどこうと思って色々してたんだけどね。結局旦那のところに帰っちゃうからさ」
「あんたが本気で私のこと好きになったとでも言いたいの?」
「名前のない関係性じゃ駄目?」
「駄目っていうか、本気かどうか分からないんだってば」

 膝に肘をつき、真剣な表情をしていたヒソカは、またトランプを出した。今度は考えるような顔で両手の間を移動させている。無意識でやっているのか、視線がトランプの方を向かない。たぶんトランプをいじるのは癖なのだ。弄んでいると落ち着くのかもしれない。こいつはたまに本当に子供みたいなことをする。

「聞きたいんだけど」
「何よ」
「君の心配事は僕の気まぐれ?」
「は?」
「気まぐれに君を殺すかもしれない。気まぐれに嘘をつくかもしれない。だから何が本当かは分からないし、信じられない。僕を信じて捨てられるのが怖い。それなら気持ちを捨てた方が楽ってこと?」
「……なんか、いつもと違いすぎて気持ち悪いわよ。図星指すなんてことしないのに」
「言われたくないだろうから言わないだけ」
「そりゃそうね」
「君の話を半分も聞けばそのくらいのことは分かるさ」
「捨てられるのが怖いってのが一番正しいけど、そんなのはあんたじゃなくても思ってることなのよ。ただあんたに対してはそれがかなり比率として大きいし、その捨てられるっていうのがなくても死ぬかもしれないから、怖い」
「僕がいくら言っても信じられないの?」
「信じさせたいならそういう態度取ってれば?」
「一生かけて分からせてあげる」

 セリフらしいセリフ。まさにそんな感じだ。ヒソカは一旦目を伏せて体を起こした。ずっと固定していた視線をようやく外せる。自分の左手を見つめる。なんでそんなに、本当のことのように喋るの。そこまで言われて私に何ができるって言うの。でも頭が混乱することを拒絶する。なるほど、判断力を失っていないとまともに聞けないことだ。そうして言いたかったことも思いも全て心に沈んでいく。うつむいていた顔を上げる。

「……やれるもんならやってみればいいんじゃない」
「分かった」
「……」
「もう嘘ついていい?」
「どうせ今までのも嘘だろうが」
「どうだろうね?」

 表情が戻って私の方を見る。真面目な顔はあまり見られたくないんだろうか。トランプもまたいつの間にか消えている。手が伸びてきて、首筋に指が触れる。それに抵抗することももうなかった。全部、酒が悪いのだ。