Queen of heart

※「空は焼けて」後


 何があったか気になっているというのは、もちろん事実だ。だから師範のところにも行った。話し合えと言われただけだったけれど、その時師範が言っていた「あんたそれ浮気じゃないの?」の一言。まさか。信じたくはなかったが、いや、全く信じていなかったのだろう。プライドもあった。冷静になって考えてみると、私以外の人間だったら真っ先にそれを疑っていてもおかしくはなかった。
 泣きはらした顔。何故自分に頼ってくれないのか。そんな顔で君を帰すような人間と付き合いがあるのか。私は言いたいことを飲み込んだ。言いたくないとその顔が言っていた。拗ねたような表情。口癖のように言っていた私は大丈夫だからという言葉を思い出した。最近ではそんなことさえ聞いていないということも。

 ブレンドコーヒーに口をつける。外はすっかり暗くなっていて、仕事が終わってから随分長くここにいたのだと気づく。喫茶店がかなり空いている時間に入ったのだが、今ではまばらに人がいる。そろそろ帰らなければ、そう思った私の前、二人席の向かい側の椅子に手をかけている男がいた。
 ピエロのような恰好をしたその男は、明らかに異質だった。かなりの念の使い手。私では敵わないかもしれない。本能的な危機を感じた。本を閉じてまっすぐに相手を見る。

「ここ、いいかい?」
「私に何か用でも?」
「今日はいい天気だね。ベランダから空を見上げるのにぴったりだ」
「……」

 会話が成り立たない。私の返事を最初から聞くつもりがなかったのか、男は勝手に目の前に座った。恐らく絶をした状態でこの席まで来たのだろう、私以外の客は彼の存在に気づいていないようだった。そもそもこんな人間が普通にいたらざわめいてもおかしくない。どうしてこんな人のいない席を選んでしまったのかと後悔する。男は何が面白いのかずっと顔に笑みを張り付けている。

「意外だな」
「……意外?」
「ま、予想通りではあるけど」

 やはり私が何か言ったところで無意味であるらしい。小さく嘆息して眼鏡を上げる。どうやら一方的に私のことを知っているようで、じろじろと観察された。仕事柄一方的に知られていることに驚きはしない。だがこんな異常な人間に知られているとなるといい気分ではない。
 男はいつの間にか手にトランプを持っていた。右手から左手へと流すようにそれを渡した後、手品のように鮮やかとも言える手つきで一枚選び取る。……ハートのクイーン。

「これ」

 瞬きの間に、その一枚の上にアクセサリーが出現していた。イヤリングだろうか。これはもしかして。差し出されるままそれを受け取りよく見ると、やはり彼女のものだ。見覚えのある装飾をしている。そこに考えが行き着いたのと同時かそれより少し早いくらいのタイミングで男が一層深い笑みでイヤリングを指さした。

「お友達の家にそんな忘れ物するなんて、うっかりさんだね?」

 「お友達」の言い方。かっと血が上るのが分かる。そういうことか。そういうことか! 男の手にあったトランプがぐちゃぐちゃになっている。それを自分のオーラがしたのだというところまで頭が回る前に男の残念そうな顔を睨みつけた。

「あの子の旦那さんが、クイーンをぐちゃぐちゃにしちゃう男だったとはね」
「……二度と彼女に手を出すな」
「怖いなあ、あくまで僕は友達だよ。今日は挨拶させてもらおうと思っただけさ。それ、彼女に返してもらえると嬉しいな」
「ふざけるなよ」
「じゃあね」

 腹の立つ笑顔だけ残して男は立ち去った。握りしめたこぶしに血管が浮いている。完全に男のオーラが消えたところで肩から力を抜き、手元のイヤリングを見た。あんな男と浮気していたなんて。自分とは何もかもが正反対な男だった。なんて言ってこれを渡せばいいんだ。彼女を前にして冷静でいられる自信がない。……一晩頭を冷やそう。情けないことだが、きっと全ての事実を知ったら教育者としての自分はなりを潜めるだろう。彼女はまだ私のことを師匠として見ている節がある。そんなあの子に男としての怒りだけをぶつけたくはなかった。
 昔からよく聞いていた変な友人というのがあれだろう。彼女の話から推測できる特徴と合致している。嘘をつきそうだし、普通にいたら目立つ外見をしていて、整った顔の、マジシャン風の男。なるほどと思った。
 そんなにあれが魅力的だったのだろうか。私よりも? 感情が流れ出しそうになり、必死にそれを抑える。イヤリングと本を鞄にしまい、店を出るため立ち上がった。頭が痛い。一晩で整理がつくだろうか。