いってらっしゃい
その習慣の存在自体を知ったのはたぶん十六だかそこらの、つまり恋心を自覚したかしてないかくらいの頃だったはずだ。最近まで忘れていた。あまりにも馴染みのない出来事だったせいか一瞬で脳から情報が消えたのだろう。それを結婚してから目にすると気になるのは、何故世間では当たり前のように存在しているこの習慣が私と彼の間では行われていないのかということだった。「いってらっしゃい」「ああ、行ってくるよ」ぼくは彼女の頬にキスをした。はあ。意味が分からないなと思うこともなく読み飛ばしていたところだが、改めて読むとどうして出がけにキスをしているのか分からない。挨拶としてキスすることがあるというのも理解できない。
女性向け雑誌というのは多々あるが、私はたまに対象の年代に関係なく何種類かの雑誌を立ち読みする。ファッションに特に興味があるというわけではない。コラム、と言うのだろうか、女性たちの意見を基に作られた記事みたいなものを読むのが好きだったのだ。この日たまたま手に取った雑誌内で既婚者にアンケートをとったものがあった。いってらっしゃいのキスをするか否か。それを見て、こんな文字列昔見たなと思い読んでみると、旦那の出勤時や、目が覚めた時にキスをすると色々とメリットがあるというようなことが書いてあった。朝キスだって。とにかくそんな知識を手に入れた私は帰って、何度も読んだ小説を本棚から出した。現実的な恋愛について知るのにとても役立った小説だ。サスペンスなのでそういう目的で読まれることは少ないだろうが、主人公が幸せなカップルなのだ。結婚まで至ったところで事件が起きる。
何故、出かける時にキスをするのか。そんな質問をしている人間は雑誌にはいなかった。ということは当たり前のことなのだ。でもこの習慣をしている夫婦としていない夫婦がある。主に子育てで忙しいだとか、なんとなくしなくなっただとかいう理由。まず前提としてカップルというのはキスをしたいものなんだそうだ。分かる。恥ずかしい。やめてくれ。なんだか色々思い出してしまい一旦小説を閉じる。
キスをしたいという前提がある。それは分かる。彼が出かけるところだ。離れがたい。キスをしたい。でもそれじゃ別に状況は関係ないのでは? 離れがたいからキスをするのだろうか。ああそういえば浮気をしないようわざわざそれを習慣にしているという意見を見た。頭が痛い……。
彼が出かける時にたとえばそれをしようとしたとする。この習慣を知らなかったらひたすら不可解なのではないか。どうしていきなりキス? ってなる。いやでもウイングさんが知らないわけないな。驚きはするか。喜ぶ……? ああ、もうやめよう!
紅茶のおかわりを淹れようと立ち上がったところで彼が部屋から出てきた。なんだかとてもスムーズにばっちりと目が合ってしまった。困ったな。冷静に困っていると分析することで慌てないよう努める。何か用があって見ていると思ったのか、不思議そうな顔をしたまま目はそらさない。どうしてそらさないんですかね。理不尽な怒りを胸にしまい、何度目かの瞬きのタイミングでそらすことに成功する。
「なんでもないです」
「……そうですか?」
なんで今私は何か言われる前に言ってしまったのだろうか。馬鹿か。絶対何かあるのかと思われていただろうから仕方ない。これ慌てていることがばれた気がする。ケトルの遅さに、しまったばかりの怒りが顔を出す。怒っているのではない。……怒っているのでは、ない。あっ、ていうか小説置きっぱなしだし見られたらばれるかもしれない。いやいやそんなまさか。全部がそんなまさかって感じのことを考えてしまった。ため息も出る。
「ケトル、」
「はっ、」
「……使うので流さなくて大丈夫です。けど」
「は、わ、分かりました」
はってなんだよ。はわわ。考え込みすぎていたらしい。話しかけられるまで近くに来ていることも気づかなかった。テレビのリモコンを置く音が聞こえたからてっきりソファーにいるものだと思っていた。その反応にさすがに驚いたのかウイングさんは一呼吸置いて言った。
「何かあったんですか?」
「……いや……ちょっ……ちょっと考え事が」
待ったこれでは浮気の時と大差ないぞ。何か言われる前に考えをまとめなければ。考えをまとめていたら何か言われてしまう。ジレンマ!
「いやあの」
言いかけたところでお湯が沸ける。なんてタイミングがいいのだろう、お前はいい奴だな。お湯をカップに注ぎながら脈を落ち着ける。なんて言うのが正解だ。正直に言う以外に正解はないのか。でも誤魔化すには事件から時間が経っていなさすぎる。駄目だ正直に言おう。正直に言わない方法を考えていた私には申し訳ないが、正直に言った方が早いと別の私が強く主張している。
「ウイングさん」
「はい」
「いっ」
「い?」
……言えねえ!
なんだ、私はいってらっしゃいのキスについて考えていたらあなたが出てきてびっくりしたのだという説明をこれからしなければならないのか? どういうことだ? パニック。はっとしてカップを見ると紅茶は出きっていた。それを生ごみの袋に捨てる。その間に彼は私の後ろを通り、水を入れてケトルをセットした。どこから話せば私のダメージが少なくて済むのだろう。いってらっしゃいのキス、読んでいた小説、雑誌のアンケート、本屋……。
「きょ、今日本屋寄ったんです」
「ああ、行くって言ってましたね」
そうだ今日はそれを目的として家を出たんだった。そう、新しい小説でも探そうと思って。寄ったんではない。
「本屋行って小説探してて、買ったついでに雑誌立ち読みしたりして帰って……きました」
「はい」
「……それで、昔読んでたやつ引っ張り出して」
「買ってきたものでなく?」
「ああ、うーん……」
「……その小説がどうかしたんですか?」
「その小説がっていうか、雑誌に書いてあったことでそれ思い出して、読み返してて」
「はい」
「いっ……」
「……い?」
ああこれ言わないといけないんだろうか。いけないんだろうな。元凶だもんな。元凶っていうかいや元凶とは言わない。同じ会話をしてしまった。こんなのどこから話したってダメージ量は変わらない気がする。今頃ウイングさんは「い」から始まる単語を頭の中で並べているところだろう。でも正解をかすってもいないと断言できる。だからキッチンに両手をついてもう一度大きなため息を吐いた。彼のことなんて見れない。
「いってらっしゃいのキスってあるじゃないですか」
「……いってらっしゃいのキス?」
「あるじゃないですか!」
「あ、ああ。ありますね」
「あるんですよ」
「はい」
「だからそれをなんかこう、なんだ、原理について考えてて」
「原理?」
「どうして出かける前にキスをするんだろうとか、どういう思考の流れでそこにたどり着くのかとかそういうことです」
「……なるほど?」
「カップルとか夫婦ってみんなキスしたいらしいですね?」
「……そ、う……そうきたか」
「そうなんですか」
「そうでしょうね」
「私はウイングさんに聞いてるんです!」
「ごめん、正しくそうです」
「……えっそうなんですか?」
「じゃあ君はそうじゃないんですか?」
「そうですね?!」
「混乱してる?」
「してます」
お湯の沸けたそいつで彼の方はグリップコーヒーを淹れる。一旦落ち着かなければならない。カップを持ち上げ、冷めかけている上に苦い液体を口に入れる。すごい。今の瞬間に一気に口が渇いていたみたいだ。渋みが喉に少しだけ引っかかる。
どうしてこんなことになったんだ。好奇心が私を殺す。でも反応からして彼の方もある程度戸惑ってはいるだろう。そりゃいきなりこんなこと言われたら戸惑うか。
「実は後で買い物に行こうと思っていた」
「はああそうなんですか」
「してくれないんですか?」
「し、……いや……そ、し、したいんですか」
「夫婦でしょう」
「言わなきゃよかった」
「私もまさかそんなことを言われるとは思いませんでした」
「でしょうね」
好奇心でもなんでもいいから早く私を殺してほしい。
私は余計な情報を雑誌から仕入れてくることが多い。らしい。いや自覚はあるのだが、それが小説からだろうがテレビからだろうが私にとって情報であることに変わりはないので、また余計なことをと言われてもよく分からない。ただ二回そう言われてからはあまり雑誌がどうとか言わなくなった。まあそれとなくやったところで違和感がありすぎてばれてしまうのだけど。
いわゆるテクニックだ。こうしたら彼氏が喜んでくれただの絶対に落としたい男にはこうしろだの。信じていたわけではない。第一そんなことをして喜ぶ人間がいるというのも当時は驚きだったし、仮にいたとしてウイングさんはその枠に入っていないという確信があった。だから挑発に近い行動だった。まだ十七の頃の話だ。
その雑誌から得た情報がまさかこんなことになるとは。こんなに恥ずかしいものだなんて誰も言っていなかったじゃないか。どうしようもない怒りのようなものを雑誌編集部に向けてみる。キスが挨拶になっている人たちにとっては恥ずかしいことではなく、恥ずかしいのだとしてもきっと嬉しさの方が大きいのだろう。もちろん私だって嬉しくないとは言わない。罪悪感さえ気にしなければその行為自体は嫌いではないのだ。特に彼は優しくて、よく分からないけれど「愛」のようなものを感じる。愛がどんなものかなんて知らないけど、まああの感じをたとえるなら、小説に出てくるとしたら愛なのだろうなと思う。なるほど、私はキスされることで彼からの愛を感じているのか。へえ。頭を抱える。
買い物。買い物か。彼か私が一人で出かけることがある度にこんな思いをしなければならないのだろうか。そのうち慣れるだろうけれど、……慣れるまで私はこれをやるのか? 本人はその気がなかっただろうからこれは被害妄想だという前提があるが、私からは余裕ぶっこいて出て行ったように見えた彼を思い出し、なんだかまた腹が立つ。私があまりに大変なことになっていたから反動で恥ずかしさが消えただけで本来なら向こうも恥ずかしいのだろうと思うが、よく考えたら彼だって別に恋愛経験が全くないということもないはずだ。ここに来た時既に二十前後だったのだから。今の私と同じくらいの年齢で、彼のように一般家庭で育った男であればキスハグセックスの一つや二つや三つあっても、おかしくない。彼が恥ずかしくないのだとすると精神力を削られるのは私だけだ。やめてほしい。でも言い出したのは私だし、これがうまく習慣になれば愛が深まる的なことがあるのかもしれない。なんでさっきから普段はなるべく考えないようにしていることばかり考えているんだろう。頭がこんなに回転したのはいつぶりだ?
水道水をコップに入れる。ペットボトルの水が常備されているので、というかあまり水道水は飲まない方がいいらしいので、彼のいる時は飲まないのだが、ぬるくて誰からも安全の保証をされていない水を飲むことでなんとなく安心するのだ。たぶん、ソファーより床で寝た方が楽な時があるように。
テレビでは天気予報が流れている。もうすぐ七時か。夕飯については彼が帰ってきてから考えればいいや。明日は曇り、時々晴れ。たば……違う、私はもうやめたんだ。吸いたい。でも吸ったらいってらっしゃいのキスできなくなっちゃう。できなくていいし! ため息を吐く。もうちょっと意見の一本化を図ってほしい。まあ禁煙したのは事実としてあるのだからどうしようもないのだけれど。
「ただいま」
「お、おかえりなさい」
「そんなに緊張しなくても」
「してません」
「そうですか?」
「してますけど」
「こっちに来て」
「はい?」
呼ばれたのでとりあえず立ち上がる。ウイングさんは買ってきたものをテーブルに置いてから私に手を伸ばした。なんだ。なんとなく警戒しながらもそれには抗わず近づくと、左手をつかまれる。そして身を引く時間を与えられる前に薬指に。キス。される。その一瞬がスローモーションで再生されて私はこれに舞い上がっているのだと自覚した。かがんでいたのを起こした彼と目が合って、微笑まれる。途端に羞恥が手から顔にのぼってきた。
「なん、なんですかそれは」
「ただいまのキスです」
「ただいまのキスですではなくないですかね?!」
「君からしてくれるようになるまでは私からしますよ」
「なんで?!」
「……夫婦だから?」
「ふ、夫婦だからかあ……」
「嫌ですか」
「嫌だったら怒ってます」
「分かりました」
「分かりましたではな、い」
なんなんだこれは。この男は欲求不満なのか? ウイングさんに欲求不満という状態が存在するのか? 実は物理的接触大好きなのか? どっちかが教育者としての自我を上回ったのか? この人との関係性において教育者としての自我はどこまで通用するんだ? はあ! 抱きしめられただけなのに連続で色々なことが起こりすぎて私の頭は疑問符で埋め尽くされている。何が分かりましただ。何も分からない。
「私もふつうの人間なんですよ」
「あっ、……あの」
「はい」
「……ほんとですか?」
「……それはどういう意味ですか?」
「いや、ウイングさんって性欲あるのかなって」
「……君は私をなんだと思っているんだ」
「……仕事人間……」
ため息が聞こえて、少し後悔した時、優しくただいつもよりほんのちょっと強引に体が離され、見つめられる。
……ああ、やばい。この目知ってる。この目から全ての「愛」を奪ったような彼らの瞳を思い出す。でも全くなかったわけではないことも分かっている。分かってしまった。この人の目を見たら、気づいてしまった。そのくらい色々な感情、愛、欲、熱、雫、ああ。そういうことなんだ。たまらなくなって腕を伸ばし彼の首に回す。背伸びしても多少かがんでもらわないと届かないこの差。背中に手が添えられる。メスも女も子供も、私の中の私がみんな騒ぎ出す。一度離れてから、絶対にしてこないと思い込んでいた、強くかみつくようなそれをされ、ざわめきが増していく。嘘だ。どうしよう。そんないきなり見せられてこの感情はどこに行けばいい?
「分かっていただけましたか」
「わ……か、わかった、もう、だめだって……」
「だめって?」
「そ……わ……分かってて言ってんなら性質悪いですよ」
「分からないわけがないでしょう」
「ウイングさんもしかしなくても結構慣れてますよね」
「まさか」
「……だってまず童貞じゃないでしょ?」
「そういうことはあまり気軽に聞くものではありませんよ」
「急に教育者に戻らないでくださいよ!」
「はいはい」
体を解放され、ようやく力を抜く。性質が悪い。彼の中で教育者としての自我を男としての自我が上回ると大変なことになる。雑誌の知識なんて実際あてにはならないものなのだ。治まらない鼓動を服の上から押さえつけた。