飲み会
※直接繋がっているわけではないですが「新居」後の話です 日本的な価値観で話を進めています
テレビを見るのが好きだ。知らない世界を覗くことができるし、暇つぶしにもなる。一般的には普通でない幼少期を過ごした私にとって、テレビと本が「普通」への架け橋だった。あの年でここに来れてよかったと思う。もう少し遅かったら、もっと普通ではない知識のもとに人生を構築しようとしていたに違いない。
ウイングさんへの感情も小説から理解した記憶がある。恋愛ドラマを見ていても登場人物の気持ちが全く分からなかった。反抗期が来るまでの私は彼にいちいちそういうものの意味を尋ねていたが、自分とは違う世界であるということしか理解できなかった。今にしてみれば彼だって得意分野ではなかったはずなのに、よく私の質問攻めを乗り切ったものだ。好きというものは知っていた。でも、恋愛的に好きなのと、友達として好きなのと、家族として好きなのが全部違うんだとか、言葉には説明しきれないたくさんの意味があるのだということは、ここに来てから学んだ。たぶん全ての疑問に答えるのは無理だと思ったのだろう。自分で理解できるように本が与えられた。読み書きを完成させたのもここに来てからだったように思う。とにかく様々なジャンルの小説を夜の自由時間に読み進め、こんなことがあるのかと思ったものだ。
一応卒業という形になった後、暇を見ては図書館に通っていた。なんとも熱心な子供だった。本屋に立ち寄って雑誌を見ることもあった。小説的な恋愛観と、世間的な恋愛観にはずれがあるということもそこで理解した。普通の女の子はこうやって生きているんだ、と。そのあたりからだろうか。そういった女性たちとは違う人生を歩んできたという自覚が芽生え、そのことに劣等感を抱き始めたのは。
家族を知らない。それは普通ではない。普通は父親と母親というものがいて、場合によっては兄弟というものがいる。どれかが欠けていたり関係が悪かったり、問題を抱えている家庭みたいなものは知識として理解している。でも私は何も知らないのだ。物心ついた時には同じ年の子供たちと食べる物を巡って争っていたし、家族と呼べるのはきっと姉弟子だけだった。彼女の存在がなければ私はもっと何も知らない飢えた子供だっただろう。
だから結婚なんてものは私にとって現実ではなかった。そんな契約を交わすことによって何があるのかも分からなかった。恋人、やら夫婦、というものは、私にとってやはり非現実的であり、おとぎ話だったのだ。それが今では夫婦というものの枠に自分が収まっている。恋についてはさすがに納得できた。では、夫婦は? 結婚は? その先に存在しているのであろう親子は? 文字列で理解しても私には本当の意味が分からない。けれど私が分からないことをウイングさんは知った上でこういう関係になってくれている。そこに不安を覚える。やはり自分のような人間とそんな契約を結ぶべきではなかったのではないか。将来後悔するのではないか。それを伝えれば彼は若干の怒りさえにじませながら否定するのだ。
お昼。街角インタビュー。コメンテーター。今日ウイングさんは朝からビスケ先生のところに行っている。何の用事かは知らない。私が呼ばれなかったということは、仕事に関することなのだろう。そろそろ昼食にしよう。コマーシャルに切り替わったところで立ち上がり、キッチンに移動した。
料理はできないこともないが、普段はあまりしない。時間もかかるし何より面倒だ。それにレパートリーも少ない。彼は作ればおいしいと言って食べてくれるが、彼のものの方がいいに決まっている。なんとなく言いたくなくてそれは胸に秘めている。お菓子作りは好きなので、時間を見つけては色々と作る。パスタソースがまだ一人分残っていた。パスタなら適当でもソースさえ市販のものを使えばうまくいくからいいか。
「奥さんへの不満は?」
ゆでている最中不意に聞こえた文章に、ついテレビの前まで移動する。どうやら夫婦感の不満をランキングにまとめようという企画らしい。まだ始まったばかりだ。とにかくさっさと作ってしまおう。
家事を手伝ってくれない。仕事で疲れているのに話を聞いてくれない。仕事の愚痴ばかりでうんざり。早く帰らないとうるさい。GPSつけられてるんですよ、と笑うスーツ姿の酔っ払い。なるほど世の中の妻と夫はこういう不満を抱えているんだな。水で熱さを流し込む。とてもじゃないが共感はできない。理解はできる。専業主婦という制度があり、夫が勤務している平日は家事や何かで時間をつぶしている彼女らは、一応家事疲れをしている。そこに仕事の話を持ち込まれてはうんざりするのだろう。でも夫は夫で仕事をして疲れて帰ってきているのだ。妻がうんざりしているのではストレスになる。そしてそんな家に早く帰ることを強制される。全てを一つの家にまとめるとそういうことになる。大変だな。
私のウイングさんへの不満は。……。特にない。としか言えない。まあ煙草をやめさせられていることは不満どころの騒ぎではないが、それも結局は私が決めてやっていることだ。無理強いはされて……されたな。いやそもそも煙草を吸っていること自体がよくないことなのだから仕方ない。
ならばウイングさんの私への不満は? ありまくりだろう。浮気はするわ不倫はするわ離婚はしたくないわ、最近まで朝帰り夜遊びは普通だったし、煙草はやめたくない。あげくすぐ泣く。一言で言えばガキ。まあ生活している上での不満は言ってくれているだろうから、そんなものだろうか。家事は分担できているはず。今は浮気も不倫も朝帰りも夜遊びも煙草もしていない。相変わらずすぐ泣くけど。彼の私への恒常的な不満というと他に何か……。ああでも、夜中寝付けなくて起きるのは困っているかもしれない。その癖だけはどうしても治らない。癖と呼んでいいものかは分からないが。今はそうなったらベランダに出てぼーっとしたりしているけれど、引っ越したらそうもいかなくなるだろう。別に好きで起きているわけではないから罪悪感はそこまでないが、同じベッドなら起きたら確実に起こしてしまう。
番組が真面目なニュースに移ってしまったので、皿を洗うべく腰を上げる。鍋も洗わないといけない。だから作った後洗えばよかったのに。……テレビで頭がいっぱいでそこまで気が回らなかったんだった。腕まくりをし、蛇口を回す。
洗い物が終わり、ソファーで一息ついたところでケータイが鳴った。タイミングがいい。ローテーブルに置きっぱなしだったそれを手にとり画面を見ると、ビスケ先生からの電話。
「はい」
『あ、あたしだけど。あんたどうせ暇してんでしょ?』
「え? まあ、暇と言えば暇ですけど」
『どんくらいで来れる?』
「は? ……先生の家に?」
『そりゃそれ以外ないわさ』
「なんで」
『あんたが暇だから』
「……二時間ないぐらいで着けると思います」
『オッケー、待ってる』
ひどい。電話を切って、大げさにため息を吐いてみる。全然オッケーじゃない。でもまあウイングさんはいるんだろうし別にいいか。それなら仕度をしなければ。ああ、こんな時なのに煙草が吸えない。
首にオーラを集める。咄嗟に右ひじを背後に回すが、小さな体はそれを避ける。その両足に腰を挟み込まれ、なすすべもなく首をしめられた。
「痛い痛いちょ、ちょっと、おああ」
「やっぱ浮気してたんじゃないの! そんぐらいであんな悲壮な顔しないでよね! あたしがどんだけ心配したと思ってんのよさ!」
「しぬ……」
ようやく解放されてせき込みながら首を押さえる。このババア本当にいい加減にしてほしい。……なんてこと死んでも言えないけど。
家に着いた瞬間これだ。ウイングさんに見られなくてよかった。声で気づかれていはいるだろうが、わざわざ玄関まで来ないだろう。ビスケ先生はそのかわいい顔を歪ませながら私を指さす。癖でそれを見つめた。
「五」
「正解。今のはオーラを集中させるのが遅い、まず足をとろうとしなきゃ駄目、あとあんな状況で喋ってんじゃないわさ」
「いやいや、……まあそうですね」
「今日は飲むわよ」
「えっこんな昼間から?」
「文句あんの?」
「ないですけど」
「よし」
とりあえず一番言いたかったことは言ったらしい。歩き出したビスケ先生についてリビングに向かう。まだ脈は落ち着かない。足が食い込んでいた腹部や腰骨は痛み続けている。ていうか飲むのか。昼間だというのとメンツから想定していなかった。先生と飲んだことはないし、ウイングさんともちゃんと飲んだことはない。この三人で飲んだら泥酔できないな。煙草も吸えないのだからそこまで酔っぱらうことはないだろうが。
リビングにつくとソファーに座っていたウイングさんと目が合う。朝別れたばかりなのになんだか久しぶりに会った気がする。最近ずっと一緒にいたせいか。脈は落ち着いてくれない。不自然でない程度の間でそらす。これは彼の隣に座るべきなんだろうな。ソファーの横に鞄を置き、彼が空けてくれたスペースに腰を落ち着ける。視線をさまよわせてビスケ先生の方を見るとそっちでも目が合ってしまった。ああ、これは何かいらないことを言う顔だ。
「あんたら変なカップルよね」
「変って?」
「隣に座るだけで緊張しちゃって」
「してないですよ!」
「あんたなんてウイング見ただけで緊張してたでしょうが!」
「う、うるさいなあ」
「……師範、からかわないでください」
「何それ、照れ隠し?」
「先生!」
「オホホホホ! 若いっていいわねえ」
ウイングさんがこらえきれないという風にため息を漏らす。やめてほしい。緊張してるなんて言われたら余計緊張してしまう。何これずっと絶してなきゃいけないの? そういう修行? 私の背中との間に挟まれていたクッションを膝に置き、そこに肘をついた。
「なんでも飲める?」
「ウイスキーはあんまり。でもなんでも飲みますよ」
「そ、よかった」
「なんで昼間から飲むなんて話になったんですか?」
「飲むのが夜じゃなきゃいけないなんて決まりはないでしょ」
「そうですけど、そうじゃなくて」
「あんたらと一回飲んでみたかったのよさ。そしたらあんたも今日暇だってこいつが言うから」
「はあ、なるほど」
視界の端で彼の足が組まれる。先生に振り回されるのには慣れているから構わないのだが、私は飲むとかなり理性に響く。実際ここでの問題は昼から飲むことでもいきなり呼ばれたことでもなく、この二人の前で酒を飲むということだった。まあ記憶にそこまで残っていないだけでウイングさんには何回か泥酔した姿を見られたと思うけど、先生に見られて面白がられたらなんとなく嫌だ。……でも先生も酔ったらひどそう。
テーブルに置かれたワインやらウイスキーやらのボトルと氷とつまみ。私のグラスにはロゼワイン。飲み始めて一時間、さすがにこんなものでは酔わないが、ビスケ先生にすごくペースを乱されている気がする。
「もっと飲みなさいよ」
「飲んでるって。……先生ペース早くないですか」
「いつもあんなペースですけど、師範が酔っているところを見たことがない」
「強すぎ……」
「いいこと教えてあげる」
「なんですか」
「ウイングは酒も弱い」
「うそ、マジで?」
「……」
何も言わずグラスに口をつける、その行動が先生の言葉を肯定していた。弱いにしてはそのウイスキーはロックだし三杯目だ。反論しなかったということは自覚があるのだろうし、ビスケ先生が異常だということを差し引いても弱いのだろうから、きっと得意なのだろう。
「顔にも態度にも出ないけどね」
「そうなんですか?」
「飲める量が少ないからセーブしてんだって」
「てことは酔ってもこのまま?」
「そうね、そんな面白く変わんないわさ」
「……ほんとに?」
「本当です」
「でもビスケ先生笑ってるし」
「師範」
「あっはっは!」
先生が心底面白いという風にウイングさんを指さす。これだから先生は、面白いという理由でそんなぽんぽん嘘を吐かれては困る。気まずそうな顔をしているウイングさんを見れたからいいけど。
「酔うと理性なくなるタイプよ、こいつ」
「……ウイングさんって理性なくなるとどうなるんですか?」
「そりゃあんた」
「師範! もういいでしょう」
「だって反応が面白いんだもの。ねえ、あんたも理性なくなるタイプでしょ?」
「えっなんで?」
「そんな感じする」
「まあその通りですけど……だから今日そんなに」
「じゃんじゃん飲むわよ!」
「ちょっと!」
「あんたらの理性がなくなったところであたしはお暇……」
「……師範」
「冗談じゃないの、もう。オホホホ」
怖すぎる。隣からのオーラも怖い。ビスケ先生が楽しそうに笑うのでついこちらも笑ってしまう。ロゼは飲みやすい。度数的にそこまで酔わないだろうけれど、ワインだし飲みすぎたら二日酔いがひどそうだ。でもさすがビスケ先生、いいワインは味が違う。私もワインの味が分かるようになったのかと少し感動してしまった。いつも赤しか飲まないから久しぶりにロゼを飲むと軽く感じる。
先生は浴びるようにビールを飲んでいる。普通の缶ビールではない。地ビールと言っていたからたぶん度数も高い。乾杯直後既にその瓶を一本、きっと缶ビールと同じ量だとは思うが、私の周りにいない速度だったので驚いてしまった。テーブルに瓶が置かれる音で我に返る。今度はブランデーを飲むらしい。先生が置いた後それを手に取りラベルを見ると、四十度。まあブランデーってこんなものか。……絶対あんなに一気に量をあおるものではないと思う。
「うまい! やっぱコニャックよね」
ビールの時にも同じようなことを言っていた。先生を見つめていると今度はウイングさんがグラスにウイスキーを注ぐ。氷が溶け始めて水が混ざる。その流れで私もとりあえず飲み干し、ボトルを取った。
「ワインしか飲まないのね」
「得意なんですよね」
「どんくらい飲めるの?」
「まあ一本は余裕かな」
「あら、じゃあ飲ませて大丈夫ね」
「でも私酔ってからが長いタイプだから、限界はそんな早くないけど二本目飲んでる間には酔っぱらいますよ」
「なおさら飲ませて大丈夫じゃないの」
「倒れたらここ泊まっていいんですか」
「そんぐらいは別にいいわさ」
「よくないって言ってくださいよ!」
「そんなことより酔わせることのが大事! あとあんたが酔っぱらって大変なことになってもウイングが持って帰るから大丈夫だわさ」
「なんですかそれ! そういう問題じゃないんですよ」
「あんたが自分で飲みすぎないようにすりゃいい話でしょ!」
「だっておいしいもん……」
「そうよね。飲みなさいよ」
「飲みます……」
「……頭が痛い……」
ウイングさんの呟きは液体と共に私が飲み込んだ。
「酔った……」
「それ何回目よ! 顔真っ赤だし」
「いやでもそこまでじゃないですよ」
「ここで吐かないでね」
「聞いてます?」
ボトル一本。ブランデー一口。ウイスキー水割り一杯。そりゃ酔うわ。思考力が低下しているのが分かる。もやがかかったように文字列が薄れていく。高級そうなチーズを口に入れる。このチーズめちゃくちゃおいしい。口に出したつもりはなかったがビスケ先生がまた笑った。
「いつも取り寄せてるのよ、それ」
「金持ちは違うわ」
「あんた、ほんとに口の紐が緩むわね?」
「あっすいません。つい」
「事実だからいいわさ」
吐き出した息は熱い。冷えているわけでもないのに、手が冷たくて気持ちいい。それだけ頬が熱を持っているのだろう。腕も赤い。酔いがひどくなる前にこうして赤くなってくれるのはありがたいのだが、ここまで赤くなってからでは既に制御が利かなくなっている場合が多いので、赤いなとしか思えない。まだ大丈夫だと言ったのに心配になったのか、ビスケ先生が出してくれた水を飲む。それをテーブルに戻すとその風でチーズの包み紙が落ちた。拾う私の頭上から声がかかる。
「本題だけど」
「本題?」
「引っ越すんだって?」
「ああ、はい。今月中には出れるかなって感じです」
ウイングさんは今酒屋に行っている。酒が足りないと言うビスケ先生に、まあたぶん追い出されたのだ。私と話したかったのだろう。買う時間を含めて一時間もかからず戻ってくるはずだ。あと四十分。包み紙はいじるとがさがさと音がする。
「ぬるっと結婚したけどやっと新婚みたいなことしたわね。結婚式もしなかったし」
「そんなに式って大事ですか?」
「女子の憧れなんて世間では言われるわよ。まあ記念にもなるじゃない? ドレスなんて着る機会なかなかないでしょ、特にあんたは」
「……必要性を感じないんですよね。だからやらなかったんですけど」
「あいつやりたがってたんじゃないの?」
「やりたいか聞かれて、別にいいんじゃないですかって言ったらそれで終わりましたよ」
「はあ……」
「だって面倒だしお金もかかるし写真嫌いだし、そういうちゃんとしたとこ疲れるでしょ?」
「あんたねえ! お金ぐらいあたしがいくらでも出すわよ」
「えっそれ結婚式やれってことですか? 嫌ですよ、今さら」
「今ちょうどそのタイミングじゃないの。これ逃したらできないわ」
「できなくて大丈夫なんですけど」
「あーもう、あいつがやりたがってんの! 相談されんの! さっさとあげちゃってよ」
「はあ、ウイングさんが? なんでやりたがってるんですか?」
「男なら妻のウエディングドレス姿見たいって思うでしょ。やりたがってるかどうかも分かんないけど、結婚した当初はあんたが嫌がらなければやるつもりでいたみたい」
「相談されてないじゃん」
「嘘に決まってるでしょ。いくらあいつでもそんなことまで言ってこないわよ」
「えー、じゃあ式あげたがってるっていうのも嘘なんじゃないですか」
「この小娘!」
結婚式か。花嫁が脱走したり、違う男が乗り込んで来たり、海辺で涙を流したり。一方が反対してそれを説得するとかいうのは見たことがないが、もしかして皆やりたがるのだろうか。それとも両方やる必要性を感じない夫婦はいても、片方だけ嫌がるのはいないとか? 私が知らないだけだろうな。包み紙をテーブルに置き、クッションをどかして足を組んだ。
「あんたウイングのこと好きなんでしょ」
「はい」
「礼装見たくないの?」
「…………それはめちゃくちゃ見たいなあ」
「決まりね」
「待って」
「なによ」
「だって私は着たくないですもん」
「対価だと思えばいいんじゃない」
「そうかもしれない……けど」
「ちゃんとした格好すりゃあいつだってちょっとはかっこよくなるわよ、きっと」
「いつもかっこいいんですけど」
「うわ、惚気」
「むしろかっこよくないポイントってシャツ出てるとこぐらいじゃないですか?」
「酔っ払いってこれだから面白いのよね」
「まだ酔ってないし」
「ウイングに聞かせてやりたいわ」
「やだやめて」
「なんでよ、たぶん喜ぶわよ」
「先生それで師範のことからかいたいだけでしょ!」
「当たり前でしょ?」
「もう」
やっぱり赤の方が味が好きだな。喉を通る冷たさ。アルコールを体内に入れている感覚。あと二十五分。イヤリングをいじる。ピアス開けようかな。でもウイングさんの礼装なんて見たいに決まっている。……いや今のはでもじゃない。これだから酔っ払いは。写真を撮られるのも嫌いだしちゃんとしたところは疲れるし、まあそれを抜きにしても見たいけど、私がドレスなんて着ているところが想像できない。美しい、潔白の象徴みたいな、白。そんなもの……。
「で」
「で?」
「まだやってないの?」
「……セックス?」
「そうよ」
「まあね」
「まあねじゃないわさ。悩んでたわよ」
「すぐ嘘つく」
「嘘だけど、悩んでんじゃないの」
「私とやったら駄目でしょ」
「何言ってんのよ」
「汚いし」
「はあ? ああ浮気のこと?」
「不倫の方。全部聞いたんだと思ってましたけど」
「浮気のことも詳しくは聞いてない。あたしの言う通りだったって言われただけ。不倫もしてたの?」
「浮気よりそっちの方が、セックス的には問題だと思うんですよ」
「そりゃ大問題だわさ」
「だから汚いしなあって」
「あいつがなんか言った?」
「なんも」
「じゃ何悩んでんの」
「他の男に軽々と抱かせるような……女と、やりたくないかなって。いやそんなことあの人は言わないと思いますけど、分かってますけど」
「……手のかかる子供よねえ、あんたは」
ビスケ先生が何杯目かも分からないブランデーを、グラスに残っていた分全て一度に飲む。よくあれで喉が焼かれないものだ。会話に間が空いたので、私もグラスを持ち上げる。好きな人と普通にセックスのできる人間の方が私からしたら理解できない。どうしてあんなことを、あんな怖いことを。見られたくもない。何か言われるからじゃない。あの人の視界に、汚いものを入れたくないからだ。汚いなんて言葉は物理的な根拠がなくて、だから彼がそう思うかどうかは私には分からない。つまり汚いと思われるかどうかは重要ではないのだ。たぶん。ていうか男からしたらセックスなんて性欲処理なんだから関係ないだろうし。知らないけど。
「したくないわけじゃないんでしょ?」
「いや、したくないです」
「汚いから?」
「はい」
「あいつがやりたいって言ってきたらどうすんの」
「それは今悩んでますけど、まあやるんじゃないですか」
「……怖いの?」
「……」
「あんたの中でできればやりたくないことなんでしょ。だからあいつにもやってほしくない。でもそれって、セックスが怖くないものだっていう認識に変えていかなきゃしようがないんじゃない?」
「そんなことできるんですかね……」
「さあね。少なくとも好きな人とやったことないんじゃ無理だと思うわよ」
「そんなに好きな人とで違うものなんですか?」
「あたしは知らないけど、友達はそう言ってた。好きな人っていうか、あんたのことを大事に思っている人。あんただって馬鹿じゃないんだから、相手の感情が全く分からないなんてことないはず。本当に自分を大事に思ってくれる人に抱かれたら違いが分かるんじゃないの」
そういうものなんだろうか。あの行為に感情が加わったところで違いが出るとは思えない。でも、そういうものだという理解はできる。そもそも好きでもない人間とやる方がおかしいのだ。私の中でそれが普通になってしまっている。……段々色んなことがこんがらがってきた。
「今そんな難しいこと考えたくない」
「酔っ払い」
「そうですね」
「開き直ったわね」
「あっ」
「……犬みたい」
ドアの開く音がして、顔を上げる。急に現実に引き戻された感じがする。両手で頬を押さえ、先ほどよりは熱が引いているのを確認する。彼は飲みすぎるなと言い残して行ったのであまり酔っぱらっているとばれるとまずい。言動で分かるかもしれないけれど、そこまでではないはずだ。分からない。酔っているから分からない。
リビングに彼が入ってくる。酒だ。そりゃそうだ、酒屋に行ってきたのだから。テーブルにその袋が置かれ、ビスケ先生が中身を出していく。これ以上ビール飲むのか……。横に置いていたクッションを抱きしめ、ソファーに足を乗せる。すごいこのクッションいい匂いがする。先生とは何もかも趣味が合わないと思っていたけど、匂いの趣味は合うのか。頭に手を乗せられた感触でばっと顔を上げた。
「眠い?」
「い、……いや全然」
「そうですか?」
「見せつけてくれるわねー」
「はい」
「あんたまで開き直っちゃって」
先生と師範の会話が遠く聞こえる。はいじゃないでしょ。なんだよもう。足を下ろしソファーの背にもたれる。その私の前を通ってウイングさんが隣に座る。なんか言わなきゃ。いやでも別に言うこともない。ああ、酔いたくなかった。
洗面所の鏡で見てみたら顔が思った以上に赤くて驚いた。酔っているらしい。このくらい赤い時はまだ記憶が維持できる。さっきも余計なことを言ってしまったし、思い出せる範囲でおかしなことを言いたくない。いや、だからって忘れればいいという話でもないが。手を洗い指輪を付け直す。結婚指輪。結婚って、愛し合う二人がする契約のことですよね、とっちらかった頭は私にそんな言葉を吐き出させた。懐かしい。一年も経っていないのに、遙か昔の出来事のように思える。窓の外が暗くなっていて、時間の経過を感じさせられた。ビスケ先生の笑い声が聞こえる。
ソファーに戻る時、通り道であるキッチンに先生がいるのに気づき、先生の後ろから覗き込む。
「あんたも食べるでしょ?」
「なんですか、それ」
「超高級アイス」
「食べます」
「味は?」
「チョコ」
「ん」
「ちなみに一個いくら?」
「千ジェニー」
「せっ……たっか!」
「だから言ったじゃない。ほら」
千ジェニーもするアイスがあってたまるか。あるんだけど。一つを手渡され、しげしげと側面を眺める。これにそんな価値があるとは。どうなっているんだ一体。マークが描いてあるからたぶんブランド料みたいなことなんだろうが。ていうか千ジェニーするアイスに使われるチョコって何が入っているんだ。本当にカカオ豆からできているやつなのか。
「あんたらが来た時のためにとっといたのよ。甘いもん好きだから」
「金持ちと知り合ってこんなによかったと思ったの初めて!」
「口を慎め!」
ソファーに座りさっそくカップを開ける。見た目は今までに見たのと変わらない。たぶん味もさして変わらないのだろう。隣の師範が視線をよこす。その手元を確認すると、バニラ味だった。
「まああんたらみたいに大味しか理解できない庶民には分かんないだろうけどね」
「味の違いくらい分かりますよ」
「そうですよ、口を慎め」
「真似すんな」
こんなものに千ジェニーかける人間がこの世に存在するというのが驚きだ。一口食べてみると確かにとてもおいしい。味の違いなんて分からない。ごめん師範。でもこれを値段を知らずに食べていたとしても、高級なものであるということは分かっただろう。まあ、これを買うくらいなら百ジェニーのアイスを十個食べた方がいいと思ってしまうけれど。自分で金を出しているわけではないからできることだ。一旦カップを置いてグラスに持ち替えた。あんまりワインとは合わない。
ちょっと待て、ボトルの中がもう半分しかない。ということは私は一人で一本半飲んでいる。煙草がないからそこまででもないだろうけれど、そろそろセーブしようとしないと間に合わない。間に合わない? そうだ、理性の崩壊を制御するのが間に合わなくなるんだ。困った。ワインおいしい。グラスを置く。アイスで口が冷える。
「おいしい時ほんとに幸せって顔するわよね。こっちがびっくりする」
「……私?」
「あんたしかいないでしょ」
「分かりやすいってよく言われます」
「知ってる」
「そんなに分かりやすいつもりないんだけどなあ」
「だって。どう思う?」
「感情が分かりやすくて助かります」
「師範まで」
「ウイングも人のこと言えないけどね」
「確かに!」
「まあ自覚はしてますよ」
「でも、昔に比べたらやっぱ隠すのうまくなったわよねえ」
「だといいんですが……」
「昔もっと分かりやすかったんですか?」
「あんたレベルだったわさ」
「それやばくないですか?!」
「それだと君がやばいということになるけど」
「まあこんだけ色んな人に言われるってことはやばいんだと思う……」
最後の方は液体になってしまっている。すくえるだけすくい、スプーンをカップに入れてテーブルに置く。他人の金で食べるアイスはおいしい。流れるようにグラスにワインを注ごうとして、手を止めた。それをビスケ先生に見咎められる。
「どうしたの?」
「いや、そろそろ止めないとなって」
「吐く?」
「吐かないですけど、記憶と理性なくさない限界がもうちょっとで来るかなって」
「なんだ、じゃあもっと飲んで大丈夫ね!」
「話聞いてました?」
「そんなん言えてるうちは大丈夫よ。無理かどうかはこっちが判断する」
「横暴……」
「師範、あまり無理させないでください。たぶん私より弱いですよ」
「ほんとーにどうしてももう飲めないってんならいいわよ」
「まあ実際まだ大丈夫だけど、でも、理性なくしてから止めるんじゃ遅いじゃないですか」
「理性ぐらいなくしなさいよ」
「あ、はい」
「はいって、君本当に大丈夫なんですか?」
「心配性だなあ。私あんまり体に来ないから大丈夫です」
「もーウイング、堅いことばっか言わないの! この子無理な時は言うでしょ」
「それはそうですが、心配にもなりますよ。師範はこの子の泥酔したところを見たことがないから」
「どうなんの?」
「意味の分からない行動をするし泣く」
「それができるのが家での飲み会の利点よねえ」
「……分かりましたよ……」
私はいつも意味の分からない行動をして泣いているらしい。心配になるのも仕方がない気がする。そんなに変なことはしていなかった覚えがあるが、往々にして酔っ払いは自分の行動が普通だと思うものだ。それよりもその記憶もなくしている時の方がまずい。そこまでの飲み方をしたことは回数的にはあまりないはず。気づいたらベッドにいたなんてことは、二回くらいしかない。注がれた赤紫色の液体をまた一口。
そのうちボトルが一本空く。脳内でまずいまずいという声が聞こえるのに手が止まらないからこれはもうかなりまずい。まずいってば。心拍数は上がりっぱなしだ。ほとんど二人の会話にも興味が向かない。いや興味はある。でも深く考えずに返事をしてしまうから参加しづらい。
ビスケ先生が立って、それを見上げると意味ありげににやけられた。トイレに行くらしい。なんだ今の笑みは? 困って師範の方を見ると目が合う。黒い瞳。目の動きを見つめていたら困ったようにそらされた。ため息。どうしてため息を吐くのだろう。
「理性をなくされては困ります」
「まだ一応大丈夫ですよ」
「……帰る頃にも大丈夫なようにしてくださいね」
「え? ああ。何時に帰るんですか?」
「八時までには出たい」
「分かった」
時計を見るともう六時だった。飲んだなあ。真面目な話をしていた時間もあったわけだけど、それにしたって長時間飲んでいる。随分この状態を維持している気がする。テーブルに広げられたチョコを一つ取る。甘いやつだ。包み紙を置き手を引こうとして、その傍にグラスを持った師範の左手があるのに気づく。当たり前だけどそこには指輪がある。手を伸ばし、触れると少しグラスから浮いた小指と薬指をつかむ。
「手あったかい」
「……君の手が冷たいのでは」
指輪を触っているとそのままちゃんとグラスを離した。彼の指に触れていた手を握られる。少し、驚いて、視線をさまよわせる。トイレのドアを開ける音が聞こえる。膝の上のクッションまで手を移動させられ、それはすっと手の甲を撫でた後、離れていった。
うわあ。
「なーに、なにしてたの今!」
「何も」
「その子のその顔どう見てもなんかしてたでしょ!」
「てっ、手、握られた!」
「そんだけ?!」
「はあ……」
「絶対もう理性崩壊すると思ったから席外してあげたってのに」
「余計なお世話です。そもそもトイレに立っている間に何かするわけがないでしょう」
「……そおよねえ。帰ればいいんだもんねえ」
「でも師範まだ理性やばくないんでしょ。帰ってもしょうがないですよね?」
「何を言っているんだ君は!」
「あっはっは! 最高! あんた酔ってるから分かんないかもしれないけどさ、結構飲んでるのよ、ウイングだって」
「酔ってんですか?」
「そりゃあ多少は」
「多少ね、あはは!」
「師範!」
「帰りたくて仕方ないんじゃないのお? まだ帰さないわよ!」
「ワインまだあります?」
「あるわさ。ほらほらウイングも」
「私まで酔ったら誰がこの子を連れて帰るんだ……」
何度目か分からないため息が隣から聞こえる。何を言ったところでビスケ先生には敵わないのだから面白い。触られた手はまだ熱を持っている。少量残っていたグラスの中身を飲む。
「赤がいいの?」
「赤がいいけど、なんでもいい」
「今あんたが飲み干したやつが一番いいやつだったから、そんないいのは残ってないけどそれでもよければ赤があるわ」
「じゃあそれで」
「テーブルの上ちょっと片づけといて」
「はーい」
……結局、家に無事帰れたのはなんとなく覚えているが、ウイングさんが言うに私は着いてすぐソファーに倒れこんでそこで寝始めたらしい。吐かなくてよかった。
たぶん、思うべきはそのことではないけれど。
変な夢だった。重苦しい痛みが腹部にあり、それを誰かに訴えている。でもそこに降ってくるのは優しさではない。そんなものは端から期待していない。ただ選別しているだけだ。つまりああいう大人と、こういう大人、この大人はそのどちらなのだろうかと。すると私であったはずの女児は知らない女になっている。たぶんあれはこの間見たドラマの脇役だ。その女は泣き叫んでいて自分の手で首を絞めようとしていた。……思い出してみると、変な夢というか、小さい頃の思い出と昼間ビスケ先生に首を絞められたのが混ざっただけだな。腹部の痛みはもう引いているが、腰骨はまだ若干痛い。かなり容赦した結果がこれなのだからババアの力は恐ろしい。私の修行不足と言うこともできるだろうけれど。
今何時だろう。夢の内容を考えていただけで覚醒しきっていなかった頭は、そこでようやくここはどこだ、と気づく。ん? ていうか私なにしてたんだっけ。ああ、そうだ、ビスケ先生の家で三人で飲んで……まだアルコールが抜けきっていない。まぶたが重いわけだ。一瞬深く眠ってすぐ起きたから不思議な気分なんだろうな。そして私は考えないようにしていた疑問を文にする。この、背中、師範だよね。
私が抱きしめているもの。座っている師範。要するにベッドに座った師範の背中に抱きついているということだ。でもそれならこの人起きてるぞ。待てそもそもここどこだ。彼の部屋? 暗くて色が見えない。目が覚めてしばらく同じ姿勢で固まっているけどどうしようこれ。そう思ったところで師範が体を動かした。びっくりしてつい手を離してしまう。
「起きてたのか」
師範が呟くようにそう言い、私はかろうじてその言葉を脳に入れる。起きてたのか。起きてたよさっきから。帰ってきてからどのくらい経っているのだろう。記憶が曖昧だが私は少なくとも自室に入った覚えはない。体を起こすと突然頭が痛みにわめき出した。片手をこめかみに持っていく。息も体も熱い。まだ飲んでから全然経っていない気がする。じゃあ今どんな状況だったんだ。
「覚えてますか」
「……えーと、ここどこですか?」
「私の部屋です」
「なんで?」
「君がソファーで寝始めたから」
「……ここに運んだのは師範の意志?」
「……そうだね。困ったな」
次の言葉が聞こえるが、小さい声だった。だから酔いたくなかったんだ、何度か頭の中で反芻してやっとそう言ったのだと理解する。酔っているのか。彼は一向に体も視線もこちらに向けようとしない。
「何時に帰ってきたんだっけ」
「九時前」
「今は?」
「九時二十分」
私の質問に端的に答えていく彼。夢のせいかやはり思考が混乱している。手を握ったり開いたりする。時間を確認して急速に体が成長したような気がした。……今、これは、今現在、二十歳の私だ。子供の頃ではない。この人がどんな大人なのかなんて選別をする必要はない。でもこの人が大人であるという認識はしなければいけない。そしてその場合私も大人であるということになる。
「しは……ウイングさん」
「……はい」
「酔ってるんですか」
「ようやく抜けてきたところです」
「じゃあまだ酔ってるの?」
「……だから困っていたんですよ」
「いつ抜けちゃうの、お酒」
思考が追いついたところで、彼がベッドに手をつき片足だけ乗せるようにしてこちらを向いた。目が合う。ぼんやりとした暗さの中、私も彼も目をそらさない。瞬きをして一度彼の手元に視線が動いてしまうが、それを瞳に戻した時まだ彼はまっすぐ私を見ていた。すっと視線を外し、足を崩して少しそちらに寄る。お互いの足が触れないぎりぎりのところで彼の手が後頭部に回された。こんなことで、いちいち、どきどきする。息を飲み彼を見上げる。見つめる。何故か目元が潤む。やだな、ほんと、どうなってるんだろう。泣きそうな私を見て彼が手を離そうとする。違う、待って。
「お願い」
その手をつかんで目を閉じる。なるほどまだアルコールが抜けていないらしい。こぼれた涙が頬に添えられた彼の指を伝う。理性なんて飛ばしてしまえば怖くない。じゃあこの涙はなんだろう。他の男を思い出す。触れるだけのキスなんて、してきたのは。ああやっぱり私はこの人に抱かれるべきじゃないんだ。でも離れたくない。メスとしての体、女としての記憶、子供としての感情。迷いなく舌を入れ、入れられる、美しさなんてほとんどないそういうキスばかりしてきた。この人とのキスはいつも優しかった。それを崩すのが私であってはいけない。だからって待っていれば崩してくれるの? たった一度、時間に換算してしまえば五秒もない。ぼろぼろとこぼれるそれを拭われる。目線を動かすとそれに呼応するように彼が合わせてくれる。間を空けたくなくて、とにかく声を出す。
「ウイングさん」
「ん?」
「抱いてください」
「……こんなに泣いてる君を抱けって?」
「はは、うふふ、冗談です。……抱きしめての間違い」
泣かなかったら抱いてくれたのだろうか。聞くことはできない。ただ、しがみつく。鼓動が耳元で騒ぐ。どちらのものなのかは分からない。
「あの私帰ってきた後の記憶ないんですけど、なんでウイングさんの部屋で寝てたんですかね」
「奇遇ですね。私も全く記憶がない」
「あれ、そんな酔ってたんですか」
「……だから飲みたくなかったんですよ……」
「……」