新居

「ベランダ広いとこがいい」
「どうして」
「……」
「煙草か」
「煙草です……」

 ウイングさんはやはりため息を吐いた。呆れやら怒りやらがないまぜになった視線が刺さる。私はそれを受け止めることなく画面に目をやった。
 つまるところ新居についての相談なのだが、私もウイングさんもあまりそういうことにこだわりのない人種だったので間取りを見てもピンとこない。大体ここから二時間くらいの駅に目星をつけてはいたものの、別に駅から近くなくてもいいし、最低限風呂トイレは別がいいかなあ程度の希望しかなく、決まりそうになかったので仕方なく自分の要求を伝えた。言いたくはなかった。というか、ベランダの広くないところになりそうならそれとなく逸らそうとしていた。

 当たり前かもしれないがウイングさんは私の喫煙をよく思っていない。何度怒られたかも分からない。初めて見つかった時は大変だった。でも何度言っても結局やめないので諦めたのだろう。私が、これを逃げ場にしていると言ったからかもしれない。とにかく最近まで特に注意してくることもなかったが、問題を起こした後ではそうもいかない。言うのを諦めていたというだけで、よく思っていないことに変わりはないのだ。
 煙草にはきっと吸っている人間にしか分からない利点がある。だがもちろん悪いことばかりでそんな利点は小さなものだ。体に悪い、臭い、高い、中毒性がある。すっきりする、付き合いに役立つ……。ただ、利点があるから吸っているというより、一度習慣になってしまったらやめられないという方が正しいだろう。視線が外されたのに気づきウイングさんの方を見る。それからまた画面に目を移すと、一目見ただけでは違いの分からない図の羅列。とりあえず何も言われなかったことに息を吐き、ソファーにもたれてテレビを見た。

「煙草についてはとりあえず置いておくとして」

 やっぱりとりあえずだった。もう一度彼に顔を向ける。

「ベランダが広いこと自体は好ましいですから」
「ですよね」
「……部屋の広さとか、ここより広い方がいいですか?」
「いや、あんまり広くても落ち着かなくないですか?」
「寝室は?」
「寝室? ……あっ、……し、寝室?」
「はい」
「……ああー、うーん、そうですね」

 同じ部屋にするかということだろう。分かってはいたが、いざそう聞かれると困る。そりゃもう一緒にするべきなのだろうしそれが嫌というわけではない。まあ完全に一人になれる場所がないのは落ち着かないかもしれないが、それは結局ベランダさえあれば解決する話だ。だからここで問題なのは私の……。考えたくなくてとにかく言葉を紡ぐことにする。すごく、見られている。仕方なくリモコンに焦点を合わせ話しかけた。

「あのそれはつまり、って、ていうか、じゃなくて、ベッド同じっていうのどうなのかなって思うんですけど」
「どうなのかなとは?」
「どうなのかなはどうなのかなですよ!」
「正直に言うとね」
「は、はい」
「君をこれ以上野放しにはしておけないから、寝室もベッドも同じにしたい」
「……そっ……の……のばなし」
「冗談ですよ」
「冗談なんですか?!」
「半分くらいね。とにかく君に希望がないようなら同じにします」
「い、いや、希望がないっていうか、だからどうなのかなって言ったのに!」
「だから、どうなのかなってなんですか。嫌なら嫌と言いなさい」
「嫌なんじゃないんだけどなんか、なんか……どうなのかなって……」

 分かってくれ。いや分からなくていい。ただどうなのかなって思っていることだけが伝わってほしい。ここまで言っておいて気づかないわけがないけれど、気づかないでほしい。よく考えたらベッドまで一緒だなんて一言も言われていない。まず部屋を一緒にするとも言われていない。でもあってた。ため息をついて顔を覆う。どうしてこんなにどっと疲れるんだろう。両手から目だけ出して画面を確認すると、バルコニーの文字。

「何が嫌なんですか」
「嫌じゃないです」
「何が、どうなのかななんですか」
「……だって今まで部屋も別だったじゃないですか。そんないきなり」
「一緒に寝るのはいいのに?」
「毎日それってむしろウイングさんはなんで大丈夫なのか分からないんですけど」
「他人と生活空間が同じなのが落ち着かない?」
「えっ違います」
「え?」
「えっ……それなら今までの一緒に寝るのも無理だった」
「毎日になると話は別と言いたかったんじゃないんですか?」
「いやそれは……」

 話がかみ合っていない。他人と生活空間が同じなのが落ち着かないと言うとまるで私のパーソナルスペースの問題みたいに聞こえる。そうではない。ただ起きた時ウイングさんがそこにいるということが毎日続くのかという思いが。思いが……。

「生活空間の問題じゃないじゃないですか」
「と言うと」
「き、気持ちの問題っていうか?」
「……もしかして恥ずかしいんですか?」
「もしかしなくても!!」
「なるほど……」

 何故今までそこに考えが行き着かなかったのか謎だ。ウイングさんは眼鏡との間から目元を押さえた。
 というかなんで私は今さら一緒に寝ることくらいで恥ずかしがっているんだろう。よく考えたらそれはかなりおかしいことのような気がする。でもそこにある感情は羞恥だけではない。きっと。
 ……避けられないことだ。ちゃんと話せば分かってくれる人だと思う。だから私が新居に移って一番最初に直面する問題は夜のことなのだろう。

「どうしてもと言うなら考えます」

 ウイングさんがこちらを見る。一旦目を合わせ、私から逸らす。こんなことを真剣に話しているのもなんだか変な話だ。

「それだけじゃないんでしょう」
「え?」
「恥ずかしいだけじゃなくて。だから、どうしてもと言うなら考えます」
「……でも、私やっぱり野放しにされない方がいいと思う……」
「寝室を分けても、野放しにするつもりはありません」
「す、すいません……」
「どうしたいですか」
「……そのうち慣れると思うし、一緒でいいです」
「分かりました」
「ベランダ」
「分かりましたよ」
「やった!」
「分かっていますね?」
「……分かってます……」

 それから外観や内装、何階建てかなどで二件に絞り込み、それぞれ見学の申し込みをする。そこまでするといよいよ引っ越すんだなという実感がわいた。生まれて初めての引っ越しだ。新婚らしいことってやっぱりこういうことなんだろうな、そうドラマの中の風景を思い出す。


 あれだけ言われてよく吸いに出れたものだと思う。ベランダに出ようと窓を開けるところまで私はびっくりするほど煙草のことしか考えていなかった。いつものことだが、煙草を吸いたいと思ってから吸い始めるまでは怒られていたことなどすっかり忘れてしまっている。ベランダの柵に手をかけ、町を見下ろした。細かい灰が落ちる。吸って、吐く。それだけの行為のために費やされる時間は私にとって必要なのだと思わされる。
 ウイングさんの言いたいことも分かる。健康に気遣ってというのもあるだろうが、将来師範代となることを目指している人間がこんなことをしているのはよくない。そもそもどうして生き延びることに精一杯だった時代があるのにそんな生き急ぐのかと言われたこともある。だからこそ今この健康体を楽しみたいのだ。決して死にたいわけではない。風向きが変わり煙が目に入る。痛みに思わず目をつむる。……煙草を吸っていて嫌なことなんて、これくらいのものだ。目を開けると、晴れてはいないが雨も降らなそうな、万遍なく広がる灰にもなれない白。夜までには雲が消えていてくれるといいのだけれど。

 引っ越し。今までの私たちは確かに夫婦ではあったのだろうが、それよりもお互いに師弟意識が強かったのだと思う。一般的な夫婦像とは違うことを理解していたし、どこかでそうなることもないのだろうと思っていた。むしろ物理的接触は恋人以上になってからの方が減った気さえする。触れられると、男の人だ、と思ってしまう。当たり前だ。彼は男であり、私は女であるのだから。でも彼の男の顔を見たことはほとんどない。どうしても教育者として、親としての意識が上回ってしまうのか、それとも私がそう認識しているから意図的にそういう行動をとっているのかは分からない。ただ結果として私たちは師弟から抜け出せずにいた。その状態で浮気なんてされてよくビンタ一発で許せたものだ。その状態だったからこそとも言えるのかもしれないが。だからどうして彼の手を男として意識してしまうのか自分でもよく分からなかった。副作用なのだろうか。……恋の。ため息は灰と共に町に飲まれていった。

「いいですか」
「……どうぞ」
「煙草をやめろと言っている理由は分かっているのでしょう」
「はい」
「許したわけではないことも」
「分かってます」
「もちろんそんなに簡単にやめられるものではないことは知っています。だけど君はやめる気がない」
「ないです」

 室内に戻って座らされ、言われたのはそんなことだった。煙草の箱を開け閉めする。側面から葉のかすが落ちた。向かいに座っているウイングさんは、組んでいた足を解きこちらに手を出す。目が合う。渡せと言われている。

「嫌です」
「すぐ返します」
「……ほんとに?」
「はい」

 渋々それを手渡すと中身を確認している。確かあと十本くらい。一度中を見るとすぐふたを閉じて、ローテーブルの上に置いた。手を伸ばしていいものか迷い、とりあえず彼を伺う。彼は箱を見つめたまましばらく思案顔でいたが、一分経たないうちにその感情はため息になって出てきた。

「一人になる時間というのが、君の場合全て煙草に集約されているような気がするんですが」
「そうかもしれないですね」
「煙草でなくてはいけない?」
「……今は他のものとか考えられないですけど……」
「だろうね」
「すごい色んな物事の切り替えるタイミングになるんです」
「切り替えるタイミング?」
「何かやってて疲れたら煙草吸ってリセットとか、風呂入る前に吸おうとか。煙草がなくなったらどこのタイミングで何をやめればいいのかとかが分かんなくなっちゃう」
「……一週間」
「嫌です」
「まだ何も言ってません」
「分かりますそんぐらい」
「そういう風にしないとやめないでしょうが」
「そういう風にしたってやめないです」
「どうしても?」
「うん」
「吸い続けるなら物理的接触は全てなしと言っても?」
「……えっ?」
「吸ったかどうかは臭いで分かります」
「えっあのそれまさか、吸ったって分かったらハグとか何もしてくれないってことですか」
「そういうことです」
「嘘だ」
「嘘だと思いますか?」

 この顔絶対本気だ。そうまでしてやめさせたいのだろうか。どっちも嫌だという答えしか出てこない。でも煙草をやめることで物理的接触が増えるというなら大歓迎だ。……いや、全然大歓迎ではない。恥ずかしい。だからって完全になくなってしまったらそれこそ死んでしまう。いや死なないけど。そもそも増えるとは言われていない。やめなきゃなくすってだけだ。そう言えば私がまず悩むところに立つとバレているのでは、どうしようもない。というかそれくらいしか私がやめる可能性を考えることがないのもすごい。

「煙草やめたくない……」
「はい」
「やめなきゃいけないのは分かってるんですよ」
「はい」
「……」
「……」
「もう分かったからその目やめてください!」
「今一日何本くらい吸っていますか?」
「え、うーん、五本前後かな?」
「ならこれを吸いきるのに二日で足りますね」
「……」
「少なくとも明後日の夜までには吸い終わっているという計算でいいですか?」
「……いいです」
「では明々後日の朝からとりあえず一週間耐えてください」
「……押忍……」

 大変なことになってしまった。煙草をやめるだなんて。でもこれでいいんだろうな。こうやって色々なことを矯正していかないといけないのだ。たぶん。それにしてもあの十本をゆっくり吸うという選択肢を与えられなかったことに驚いた。さっさと吸いきれということか。でもそれじゃいきなりやめることになってもっとつらいのだが。まさか、それが狙いとかいうわけじゃないよな。この人はそういうところがあるから怖い。

「実は私も吸っていたことがあるんです」
「……え、ウイングさんが?」
「一箱吸いきらない程度でしたけどね。師範にバレてひどい目にあって、それ以来です。君が始めたのは卒業した後だったからあまり口出ししないようにしていたんだけど」

 私も大分ひどい目にあった記憶があるのだが。

「だからおいしいという気持ちは分かります」
「はい」
「でも同時に中毒性があることも分かる。これ以上悪化する前にやめた方がいい」
「……はい」
「君にとって煙草を吸うことではなく、ベランダに出るという行動が、切り替えるタイミングになればいいんですが」
「そっか……そうかも」
「……お茶でも飲みますか?」
「あ、私やります」
「座っててください」
「わ、分かりました」

 ウイングさんは立ち上がり、キッチンの棚から紅茶のパックを出す。いい背中だなあ。あれに触ることができなくなるよりはやっぱり煙草をやめる方がいいかもしれない。
 ベランダに出るという行動か。確かに私にとって煙草を吸うのとベランダに出るのはほぼ同義だ。あそこで過ごす時間がそれだけで大切になればいい。ということだろう。ベランダの柵、空、街並み。先ほどと変わりなく白だ。……晴れてくれないかな。