あなたとなら恐怖さえ
目が覚める。ベッド横の照明だけの頼りない空間、指先が視界に入る。視線を動かせない。嫌な汗をかいたような感触。ずっと同じ姿勢だったのか右肩が痛い。それに痺れて指が冷え切っている。何度か瞬きしてようやく今私は起きているのだと把握する。傍に置いてあったケータイを、なるべく体を動かさないように手さぐりで目の前まで引っ張り、時間を確認する。二時四十三分。よりによってこんな時間に。無駄にメールをチェックしたりして数分間ここが現実だと理解できるよう光に目を慣れさせる。そのうちに雨が降っている音に気づく。完全に眠気が飛んで、このまま目を閉じたところで雨音に悩まされるだろうと思う。もうどんな夢だったのかも忘れてしまった。
部屋から出てリビングの電気をつける。眩しさにゆっくり慣れていく。ますます眠れなくなりそうだと思ったが、私は紅茶を淹れた。痛いのは右肩だけではなく全身だった。とにかく雨音を消してしまいたくて、テレビをつける。
雨は嫌いではない。雨が降っている町を眺めながら煙草を吸うのは好きだし、いい音楽になる場合もある。でもこんな深夜に聞いて気分のいいものではない。深夜に降る雨というものにどこか生理的な嫌悪や、本能的な恐怖を覚える。子供の頃刷り込まれた先入観のせいかもしれない。何があったとかはっきり思い出せるわけではないので、生きているうちに積み重なった小さな不快感が原因だというのが、今の私からするとたぶん一番近い。
煙草が吸いたかった。思い切ってカーテンを開け、外の様子をうかがう。部屋が明るすぎてあまり見えない。仕方なく煙草を取りに自室に戻り、窓を開けた。風は強くない。端にいれば濡れるかもしれないが、雨の勢い自体も強いものではなかった。いつの間にか張りつめていた体から力を抜く。
たまに何もかもが怖く感じることがある。昔に比べれば暗いのも平気にはなった。怖くても態度には出ないし、そんなことよりも生き抜くことの方が大事だったりする。理屈で説明のつくことは怖くない。でも、世界の全部が、その頃私にとって全部だった小さな世界が、どうしても怖かったのを思い出して、急に全てが怖くなってしまう。ライターの火。ベランダの手すり。カーテンを開けること。窓に映る自分。テレビをつける瞬間。熱い紅茶。カップを机に置く音。静けさ。視認できない部屋の隅。だからたとえば雨の音が窓の外から聞こえてくるのも怖くて仕方がない。直接聞いている今は大丈夫だが、部屋の中から聞くと何故か怖い。理屈の通じない恐怖が怖い。目を、閉じられない。煙が霧散する。空を見上げる。暗い。雲に覆われているそれ。星が見えなくて悲しくなる。あなたにいつも救われているのだと気づかされる。ニコチンに意識が向いていなかったことを、灰の長さで知る。
室内で流れる通販番組の音声。今日は体の至るところに巻きつけて振動によって鍛えることができる機械だった。本当にあんなもので鍛えることができると思っているのだろうか。いや一般人はあの程度で充分なのかもしれない。気になって腹筋を触る。こうして考えることも製作者側の意図にはまったように思える。それしか考えることのない瞬間があることに少し安心する。まさか通販番組に感謝する日が来ようとは。紅茶は冷め切っておいしくない。段々いつもの感覚が戻ってくる。今現在の私が帰ってくる。液体を流し込んでソファーに横になる。何度か姿勢を変えても落ち着かなかったので仕方なく自室からしまいこんでいたブランケットを引っ張ってきて、カーペットの方に寝転んだ。テレビの音と雨の音。怖いのはなくなっていない。足を動かすとローテーブルの脚にぶつかる。縮こまってブランケットで足を覆い隠してしまうと恐怖は薄れた。
……思い出す。色々なことが頭に流れ込んでくる。気持ちよく寝れるソファーは私の居場所ではない。頭だけ上げてテレビを見る。三時十五分。まだ朝にはならない。体を起こしソファーと机の間で体育座りになる。ブランケットで覆いきっていなかった部分が冷たくなる。畳んでいたそれを広げて完全に足元を覆う。こんなことしたってどうしようもないことは分かっていた。でも、こんなことがどれを指すのかは分からないし、何をどうにかしたくてその「こんなこと」をするのかも分からない。きっと分かっているけれど、分からない。机の上にあった本を手に取る。カバーがかかっていてタイトルが分からず、表紙を開く。
おはようございます、テレビから聞こえて視線を上げる。思った以上に本に集中していたらしい。四時になるところだった。それを確認したところで、頭から小説の内容は消える。そのまま本を閉じ、カバーのずれを直して元あったところに置く。足がしびれた。立ち上がってキッチンに行き、カップを水につける。あの人どうなったんだろ。文章の流れを思い出そうとする。
過去にしきれていないこと。けれど確実に過去であること。数日前のこと。昨日のことのように彼らの声が思い出される。抱きしめられた。セックスをした。キスをした。そして、だから、怒られた。きっと色んなものを捨てた。捨てたから思い出せない。思い出せないことにする。朝のニュースでは人が死んだりしている。かわいそうに。あんな道で転びかけた。いや、思い出せないんだった。怖い。もう子供の頃の感覚はいなくなったと思ったのに、また恐怖に襲われる。外からは雨の音が聞こえるし、背中に接触しているソファーは気持ちいいのだ。テレビが鳴っているのに、どうしようもなく静かに思える。私にはその矛盾が理解できない。一度目を伏せたら暗くて耐え切れず、結局テレビを眺める。私が悪い。私が悪い。馬鹿みたいだ。
ウイングさんに会いたい。急に欲求があふれ、それと共に流れ出た涙に戸惑う。誰にも会いたくないけれど、彼には会いたい。こんなに怖いのに。怖いから? 彼は自室にいる。会える距離にいる。どうにかしてほしい。全部。私の全部をどうにかして。ティッシュが最後の一枚だった。涙が止まらない。嫌だ。怖い。何も望みたくない。会いたい。だってどう頑張ったって……。昔の私と今の自分が混ざって、でもそのどちらもが彼を求めている。まだ呆れられるんじゃないかなんて思っている自分に、驚きはしない。絶対彼はそんなことはしない。でも、だから、だって、なんだ? 涙が口に入ってしょっぱい。手の甲で拭って軌道をそらす。こすったら痕になると分かっていても、あまりに止まらなくて目元から水分を除こうとしてしまう。最大級に泣いている時の顔は見せたくない。
テレビくらい消せばよかったとドアをノックしてから思った。けれどそんなことはどうでもよかった。返事はないがベッドから降りる音がする。ドアが開く。彼がいて、我慢できなくて、でもうまくいかなくて、中途半端に服のすそをつかんで、その全てにまた涙が出る。服をつかんでいない方の手を顔に持っていく。体が包まれる。温度が上がる。やめてくれ。何を? どうにか落ち着けただけの感情は、再開してしまえば一気に頂点まで振り切る。彼の服に嗚咽ごとしみこんでいく。背中をなでられる。助けてほしい。
深呼吸を繰り返し、色んなものが治まっていく。少し体を離して顔を見上げた。
「あの、……あの」
「うん」
「……な、なんでもなかったです」
ああ、言えない。感情が治まり始めた今、理論やら理屈やらを叫ぶ自分が先に立ってしまう。もちろんそれだけではないけれど。
うつむいた私の髪をよけるように手が頬に添えられる。心の整理がつく前に顔を上げさせられ、咄嗟に目を閉じた。
…………そんなに分かりやすいか。分かりやすいよな。知ってた。でもびっくりした。ていうか意味が分からない。なんで今この流れでそうなったのか冷静に理解ができない。正直言ってものすごく理解はできる。頭の混乱具合がいつにも増してひどい。死にたい。
「いいですか?」
「えっ? ま、待って。どっ、な、なにが? いたい! なんで?!」
「こっちだって恥ずかしいんですよ」
「……か、顔に書いてありますね」
「はい。だから大人しくして」
一回で終わると思っていた。そんなわけがない。馬鹿か私は。あまりの取り乱しっぷりに笑えてしまう。頬をつねりたくなる気持ちも分かる。でもそんな何回もするのおかしくないですか。どの口が言うんだって言われそうだけど。大パニックだ。照れているのはとてもよく伝わってくるのだが、それにしてもならどうしてすんなり二回目できちゃうのかなと思う。大人だからなのか。こんなところで大人と子供だと思い知らされるのはなんだか悔しい。そもそもこっちに聞かないでほしい。もしかしてウイングさんもこのぐらいパニックになっているのだろうか。……いやそれはないな。
「泣きやみましたね」
「……そりゃそうですよ」
「真っ赤だ」
「こっちのセリフです」
「言い出したのは君でしょう」
「言ってない」
「言おうとした」
「言おうとしましたよ!」
「もう朝だけど、寝るなら入って」
「いいんですか?」
「テレビを消してきなさい」
「はい……」
「……離したってどこにも行きませんよ」
「わ、分かってます!」
ちょっと服から手を離せなかったくらいでそんなこと言わないでほしい。まあどう考えても離したくないと思っているのが伝わるくらいの間だったけれど。ずるい。
久しぶりに同じベッドで寝た気がする。そもそも添い寝なんて小さい頃にやってもらったきりだ。寝れなくてここに来てもその後結局煙草を吸うだとか自室に行くだとかしてそういうことからは逃げていた。恥ずかしいから。……恥ずかしいってなんだ。ウイングさん相手にここまで子供みたいになってしまうのをやめたい。
隣にこの人がいるというのが、ひどく安心するのだ。