好きとか

 障子は人目につくところでマスクを外すことがない。どころか前髪が長すぎて顔のほとんどは見えないし、複製腕がなければ周りが見えているのかも謎だ。リビングから出ていく後ろ姿が視界に入り、目を逸らしてからぼーっと考えていると、テレビを見ていたはずの常闇と目が合った。
「なに?」
「いや……」
「なあ常闇?!」
「むっ……すまん、なんだ?」
「やっぱ初めてはかわいい子としたいよなって話!」
「キスって言って、ちゃんとキスって!」
「俺はあまり、そういった話は」
「ちょっとー! 女子の前でそういうこと言うのどうかと思うぞ!」
「私らだってイケメンがいいもん!」
 瀬呂の言葉に、葉隠や芦戸が反論する。テレビで流れる浮ついた薀蓄についての議論らしい。先ほどから冬や寒さに関係する話をみんなは興味津々といった様子で見ている。
「好きな子だったら、結局かわいいんじゃないかな……」
 ぎゃーぎゃー騒ぐ彼らに、ぼそりと尾白が答える。
「そりゃそうだけどさ。え、何、まさか経験談?」
「ち、違う! 想像だよ想像」
「怪しいー、尾白くんファンいるからなー」
「いないって!」
もイケメンがいいよね?」
「え? さあ、興味ない」
「えー!!」
はそんなことより筋トレのが好きだもんなあ」
「そうだね」
 好きな子だったら結局かわいい。それはたぶん的を射ていて、私自身もそうだけれど、もうかっこいいと思っていなかった頃のことを思い出せない。ただ、だからといって彼もそうだとは言い切れなかった。初めてだったかどうかも知らないが、あいつは私でよかったのだろうか。
 その後しばらくテレビを眺めながらみんなが話すのを聞いていたが、私には完全に興味をなくしたようなのでタイミングを見て抜け出す。強く気になったわけではなかったけれど、こういうことは他の人間が言うのを聞いても意味がない。結局私は浮かれているので、彼に会いたいだけなのかもしれない。馬鹿馬鹿しい。
 部屋に着いてベッドに座りながら連絡先を開く。できれば電話がいいけれど、文面であっても話すことができればそれでいいか、と思う。とはいえあんなことを文面で聞くのはあまりよくないのではないか。電話の方が誤魔化しがきかないから私は嫌だが。
 ─ちょっと聞きたいことあるんだけど。
 とりあえず一行送って既読がつかないことを確認する。でもでもだってが止まらず、そこから指が動かない。焦っていることを知られるというのが強い恐怖としてあるため、明日でもいいから電話がしたいというのを慌てて送り、その画面を閉じた。というか聞いてどうするんだ? よくないなんて絶対言わないだろう。障子だけでなく、そんな聞き方をされて冷たく返せる人間はいないはずだ。別の話題を考えておかなければと思いながら、我慢できずにまた画面を開いてしまう。ここまでするなら通知をつけた方が早いのだけれど、人のいる時に来たら困る。返事が来ておらず、消そうとした直後にそれは送られてきた。
 ─今では駄目か。
 駄目なわけないじゃん。数秒間その言葉が頭を埋め尽くし、既読をつけるのを躊躇う。明日は忙しいんだろうか。会いたいとか言ったら迷惑かもしれない。いや、そんなことを言うつもりは毛頭ないのに、なんだこの焦りは。言うつもりがないのに思うわけないだろうが! とりあえず電話は出なければと大丈夫と送る。
 返事から一分ほど経った頃着信があり、恐る恐る通話アイコンをスライドさせる。
「もしもし」
『俺だ。どうした?』
「どうっていうか……今部屋?」
『ああ。お前も部屋ではないのか』
「そうだよ」
『……聞きたいこととは?』
「なんか……今下でテレビ見てたんだけど」
『ああ』
「瀬呂が……なんだろ。尾白が、いや、瀬呂が、かわいい子がいいとかって」
『……何がだ?』
「えーと……その、それに尾白が、好きな子ならかわいいって……瀬呂のはキスの話」
 言ってしまってからやはり顔が熱くなる。考えないようにすればしっちゃかめっちゃかでも照れずに言えると思ったのだが、そう単純でもない。間が空いたので困惑しているのだろうと思い、膝を抱える。
「はじめて……は、かわいい子がいいんだって」
『ああ……なるほど』
「どうでもいいよね。寝るわ」
『いや、待て。……お前にとってどうでもよくないから、連絡をくれたんだろう』
「……ごめん」
 めんどくさい女! 最悪だ。まるで引き留められたかったみたいじゃないか。どうでもいいのだ、本当に。言いたいことを理解してくれたというだけで、私は構わなかった。
『結論から言えば、尾白に近い』
「え?」
『……お前のところに行きたいが、さすがに人が多いから難しいな』
「……えっ? あ、そ、そうだね」
『あまり遅い時間に行くわけにいかない。朝、お前の部屋に行ってもいいか?』
「え、ちょ、ええ、そりゃ、いいっていうか、ありがとうだけど……ほんとごめん」
『いや……俺こそ、うまく伝えられずすまない。言いたいことを朝までにまとめておく』
「分かった……じゃあ、こないだぐらいの時間に起きとくね」
『では、また連絡する』
「うん、ありがとう」
『おやすみ』
「おやすみ」
 展開が早すぎて気持ちが追いつかず、電話を切ってから放心してしまった。尾白に近いということは、好きな子ならかわいい、……とは言い切れないってこと? 障子がそれを言ってくるとは思えない。なんで部屋に来るんだろう。そんなの、期待してくださいと言っているようなものだ。お前のところに行きたいが。私も、とか言っておけばよかった。何がどうして行きたいになるんだろう。言いたいことをまとめるのも分からない。なんだか何も分からなかった。彼の言っていることが。
 脳がキャパオーバーを起こしているらしい。とにかく寝ようと思い、アラームをセットしてベッドに横たわった。

 焦ったような心地で目が覚め、わけも分からずスマホを手に取る。画面を見るとまだ二時半頃で、早く寝たために体が起きてしまったらしかった。今寝て一時間で起きることができるかは分からない。一旦リビングに行ってお茶でも淹れるかと思い、部屋から出た。
 リビングは暗く、自分の足音だけが異様に響く。
「誰だ?」
「うわっ!!」
か」
 言われながら電気をつける。キッチンにはマグカップを持って突っ立っている常闇がいた。
「なんで電気つけないんだよ……びっくりした」
「すまん、すぐ部屋に戻る心算でな」
「寝ないの?」
「戻り次第就寝予定だ」
「あ、そう」
「お前は珍しいな」
「早く寝すぎた」
「なるほど……時に
「まだなんかあんの?」
 棚から自分のマグカップとココアの粉を取り出す。何かしらを飲みながら私を見た常闇は、戸惑うような間を空けた。
「障子から聞いた」
「……は?」
 思わずお湯を注ぐ手を止め、やつの真っ黒な顔面に目をやる。目を伏せた烏頭は完全な黒となった。電気もつけずにぼーっとしないでほしい。
「まあ、なんだ……俺が元凶だとお前は思っていそうだと思ってな」
「思ってるけど?」
「即答しなくとも……」
「それがどうしたわけ」
「む……それが胸にわだかまっていたことを障子には伝えていたのだ。その上で報告を受けた」
「ふーん」
「その……よかったな」
「……まあ、そうだね。ありがとう」
「……お前は嬉しくないのか?」
 そういえばこいつとじっくり話すのは初めてかもしれない。渦を巻くえんじ色の液体を眺めながら思案する。ただの元凶だという認識は大きいけれど、こいつがいなかったら良くも悪くも状況は変わらなかったのだ。スプーンでカップの中身をかき混ぜ、ポケットに手を入れた。
「嬉しいよ。……でも障子を巻き込まない方がよかったんだろうなとも思う」
「巻き込む?」
「そうでしょ。無駄じゃん、こういうの」
「難儀だな……俺には恋愛沙汰はよく分からないが、それでも共にありたいと願い、互いを守ろうとするのがお前たちではないのか」
「なんだそりゃ」
「個人的な意見だ」
「知ってるわ」
 ココアはまだ熱く、舌を火傷しそうに思う。こいつは本当に変な言い回しが好きだなと呆れていると、男はさらに続けた。
「少なくとも外野からはそう見える。お前たちが出会ったのには意味があるのだと思う」
「なんだそりゃ」
「運命の導き……」
「はあ?」
「……障子は懐の広い、漢気のある男だ。心配する必要はないだろう」
「分かってるよ。……まあ君の言わんとすることは分かるけど、だからこそ悩んでるっていうか」
「……難解だな」
「でも、ありがとう」
 常闇を見ると僅かに目を見開いている。失礼なやつ。私の方が、もちろん。
「お礼は言っときたかった。色々」
「そ、そうなのか」
「マジで、嬉しいことには嬉しいし。じゃ、寝るとこ邪魔してごめんね」
「ああ……また明日」
「うん」
 どことなくぼんやりしている常闇を置いてリビングを出る。偶然とはいえこの機会にきちんとお礼を述べることができてよかった。いつか話そうと思っていたが、確かによく考えたら障子はあいつに話すだろう。何をどう話したのだろう。そもそも常闇が私たちに対してどういう認識でいたのかも分からない。
 想定より長々と話してしまったようで、部屋に戻ると既に三時近くなっていた。あくびを噛み殺しながらスマホを取り出す。
 それからしばらく横になり、目を閉じても眠れないと確認してから、ネットニュースだとかを見て過ごした。時間が近づいてきたのでアラームを解除しておく。
 起きている旨を送ると、四時過ぎに彼から返事が来た。それに了承の返事をして、部屋を出る。さすがに廊下は肌寒い。少し迷ってから、窓側の壁に寄り掛かるようにしゃがむ。あの時間に常闇がいたのだ、誰かいてもおかしくはない。もういっそ、知られてしまいたいという気持ちが湧く。天井を見上げると角が壁に当たり、目を閉じる。障子は誰かに知られてもいいのだろうか。目を開け、床に胡坐をかく。クラスメイトの反応は考えたくない。どうしたらみんなからかわずにいてくれるのだろう。それにきっと、私たちよりも周りの方が気にするようになるのだ。それが一番嫌だ。いちいち気を遣われていてはたまらない。
 エレベーターの駆動音にはっと顔を上げる。下から来たのが分かり、息を吐き出した。すぐに二階で止まったそれが開いて、待ち望んでいた相手が現れる。
 ああ、駄目だ。だから無駄だと言ったのだ。目がちかちかして、眩暈さえ覚える。

 立ち上がると、ここにいるとは思わなかったのか彼が驚いたように言った。
「おはよ」
「おはよう。待たせてすまない」
「え、全然。誰もいなかった?」
「ああ」
「ごめんね、来させちゃって」
「いや。あまりお前に無理を強いるのは本意ではない」
「無理って……ありがと」
 話しながらドアを開け、彼を招き入れる。私が心底臆病者であることを、この間のあれで彼は理解したようだった。最悪。
「邪魔をする」
「どうぞ」
 見慣れた部屋に障子がいると、やはりひどく違和感があった。彼に続いて靴を脱ぎ、ラグに彼を促してから、ベッドに寄り掛かれる位置に座る。膝を抱え、所在なさげに部屋を見ている彼の横顔を見た。かっこいいなあ。ほとんど顔見えないのに。すぐに気づかれてしまい、視線がぶつかる。
「すまん」
「ん?」
「部屋をじろじろ見てしまった」
「いいよ、別に。見られて困るものないし」
「そうか……これだけ物が多いと管理が大変そうだな」
「そんなことないけど、まあ障子よりは大変かもね」
「そうだろうな……」
 お互い黙ってしまい、数秒見つめ合う。謝った手前部屋に視線をやれないのかもしれない。
「部屋見てもいいのに」
「……」
「べつに、私を見ててもいいけど」
「そうなのか?」
「まあ今は」
「今だけか」
「期間限定」
「なるほど」
「君は?」
「俺も、そうだな」
「そっか」
 会話が終わればまた目が合って、そこから目は逸らされない。逸らした方が負けなんだろうか、これ。障子は絶対そんなこと考えていないな。一体何を考えているのだろう。そういえば昨日の件は考えてくれたのだろうか。なんだかこうして顔を合わせたらどうでもよくなってしまった。

「はい」
「色々考えたんだが」
「いろいろ」
「ああ。お前は……そうだな。俺を好いてくれているという認識で構わないか?」
「えっ? そりゃ、そうだけど」
「分かった……ありがとう」
「え、こちらこそ」
「すまん。その上で昨日の話をさせてもらうが、正直俺は、外見の美醜にあまりこだわりがない」
「まあ、そうだろうね」
「尾白の言うかわいいというのは好意から来るものだろう。瀬呂の言っているのとはたぶん違う。尾白に近いと言ったのはそのためだ」
「は、はあ……なるほど」
「ただ、気にしたことがないから、好意があるからかわいいと思うのか、逆なのかは分からない」
「ちょ、ちょ、ちょっと待って」
「すまない」
「すまなくない」
 私のことをかわいいと思っているのか、この人? ようやく完全に視線を外すことができ、それから額に手を当てる。
「ちょっと待って、分かった、分かった……続きをお願いします」
「……お前は、つまり俺にとって初めてキスをする相手が自分でいいか、というようなことを考えていたんだろう。当然いいに決まっているが、かわいいだとかより、相手がお前であることが重要だと、俺は思う」
「……はい……」
 段々頭が痛くなってきて、両手で顔を覆う。
「かわいさ以外も、初めてであることや、キスをすることは他の要素に替えることができる。だがお前に好意があるというのは、替えてしまったら成り立たない」
「あの」
「なんだ」
「えーと、……かわいくなくても、初めてじゃなくても、行為がキスじゃなくても、お前とならなんでもいいよって話ですか?」
「そうだ。長くなってしまってすまない」
「待って全然分かんない!!」
「……そうか?」
「いや分かる。理解……理解はした、ていうか、あの、死にそう」
「死なれては困る」
「死なない」
 たぶん、納得もしている。主語を自分に置き換えればすぐに分かることなのだ。それでも、言われているのが自分であるという事実が相反する感情を生んでしまう。顔どころか角の付け根まで漏れ出る熱に焼かれていく。これ以上彼に謝らせるわけにもいかないし、何か言わなければ。何を? 障子のことなので、ある程度、こちらにとって都合のいいことを言うのだろうという想像はついていた。だがこんなのは聞いていない。両手で挟んだ頬があまりにも熱く、本当にどうにかなりそうだった。
「死ぬ……」
「……死ぬほど恥ずかしいという意味か」
「そりゃそうでしょ!!」
「お前を不安にさせたのは俺の責任だ」
「違う違う! ほんとに違う! くだらない話に乗ってごちゃごちゃ考えちゃったのが悪い」
「そうは言うが」
「そうなの!」
「そこまで言うのであれば、今回はそれでいいが……一番懸念しているのは、今後同じようにお前が不安になった時、俺に連絡するのを躊躇うことだ」
「え?!」
「お前なら考えかねない」
「だって私が悪いじゃん」
「俺はそうは思わない」
「そ……そうだと思う」
「……連絡しろとは言わないが、躊躇う必要がないということは分かっておいてくれ」
「分かった」
「本当か」
「ほんと」
「……そうか」
 信用していなさそうな顔に、ほんとほんと、と叫びたくなる。そもそも、付き合っている(ということでいいのかは知らないが)からと言って相手の何もかもを背負うのはおかしいのではないか。今言うと言い訳にしか聞こえなそうなので黙っておくけれど。胡坐をかいた太ももに肘をつき、ため息を吐きながら顔を押さえる。一気に疲弊した。絶対に私は連絡を躊躇うだろう。分かり切っている。こう何度も言われるのだって、私のこの態度が悪いのだ。それが分かっていて、表面上でも嘘を吐くことができないのはなんなのだろう。心配されたいのだろうか。最低だな、私。
「俺からも一ついいか」
「えっ? う、うん」
「お前は……俺でいいのか?」
「……はっ?! そりゃ、そう、じゃなきゃ、色々な状況になってないけど」
「……なるほどな。それもそうか」
「ご、ごめん?」
「いや、何も謝る必要はない。こちらこそすまん」
「君は本当に何も謝る必要がない」
「……そうでもない」
「そうかなあ……」
 何も思いつかないが、今私が謝られる理由はあったのだろうか。ない。でも、もしかしたら、障子も毎回同じように思っているのかもしれない。私のは大概自己満足のための謝罪なのだ。

「なんでしょうか」
「……触れても構わないか?」
「は、はあ?! な、なんでもいいよ」
「なんでもよくはないだろう」
「私はたぶん、君以上に、相手が君ならなんでもいい、なんだよ」
「……なるほど。……お前がそう思うことを考慮していなかった」
「あそこまで考えたのに?!」
「そうだな。慣れない状況だ」
「そっかあ……」
 いや私もだけど、と言う前に、頭に手が触れる。肩はもちろん跳ねてしまったけれど、大丈夫と言うと、する、と前髪を撫でられた。彼の手は大きすぎて角の間に入らない。脈は上がる一方で、本当にこのまま死ぬのではないかという気がしてくる。ちょうど視界が陰っているので、その状態で、拳一個分、彼に近づく。馬鹿みたい。こんなの、自分を責めてでもいないと心が保てない。俯く後頭部を撫でられ、安心感が募っていく。
「障子」
「ん?」
「手……」
「ああ」
 頭を撫でていない方の手が差し出され、片手を乗せる。熱が伝わっていく気がして嫌になる。嫌になる必要なんてないのだろう。たぶん……。一度目を伏せ、爆発しそうな心臓に意識を向ける。緩く繋がれていた手を、やっぱり、掴むことにして、自分の頬にあてがう。つめたい。
「ねえ」
「なんだ」
「外しといてね」
「……分かった」
「いつでもいいけど」
「ああ」
 音なんて聞きたくない。でも、この部屋は静かで、また嫌な気持ちが湧く。嫌なんじゃない。これは羞恥だ。いつの間にか両手が頬を包んでいて、冷たさを吸収する感覚に浸る。彼の手は無理に顔を上げさせるようなことはしない。だから私が、覚悟を決めなければならない。
「目、閉じる」
「ああ」
 自分で言葉に出してから、ゆっくり目を閉じる。少し顎を上げ、あの、永遠が、私を包み込む。触れる唇はこの間と似た熱さで私の心を襲う。姿勢つらくないかな。私は若干首が痛い。そういえば、一度目は混乱しすぎて何も分からなかったのだ。完全な静寂でもなければ聞こえないような息遣いが、脳に響く。触れる時と同様遅すぎるくらい丁寧に離れた唇を想いながら、瞬きをする。視線を上げ、彼が私を見ているのを見る。
「腰とか痛くないの」
「気にはならないが、……いいか?」
「ん? うぅわっ!」
 なんの確認をされたのか分からないまま抱えられてしまい、思わず声を上げる。片膝を立てて座る彼の、もう片方の足に座らされ、ほとんど視線の高さが同じになる。
「な、な、な、なに?」
「お前の首がつらそうだった」
「え、ああ、ええ、まあ……」
「嫌なら降ろすが」
「嫌じゃない……」
「よかった」
 腕に肩から腰までを抱えられ、逃げることが不可能な状態になる。逃げようとは思っていないが、怖いというか、これはもう受け入れる以外にないのだなという感覚。手の行き場がなく、結局庇うように胸元に置く。血液の流れが大変なことになっているのが分かる。
「やばい」
「何がだ」
「え、……ぜんぶ」
「……そうか?」
「絶対キスすんじゃん」
「嫌か」
「嫌なわけないから困ってる」
「困っているのか」
「大混乱だわ」
「……降ろした方がいいか?」
「よくない……」
「キスはしてもいいのか」
「してほしい……」
「……分かった」
 最早泣いてしまいそうだった。こんなことでいいのだろうか。この姿勢が楽だとか、そういう問題ではない。色々迷ってから、目を伏せた私に彼が唇を寄せる。手汗がひどい。喉渇いた。今何時だろう。余計なことばかり気にするのをいい加減やめたい。彼の口がすこし開いて、唇で唇を食まれる。捕食かよ! 本当の意味で今すぐ心臓を取り出して息の根を止めてほしくて、一旦落ち着いたら今度こそちゃんと応えるのにという気持ちになる。どうしたらいい? 私も食べればいい? 何も分からない、助けてくれ、私は食糧じゃないしこれはどきどきして死んじゃいそうで、固まっていることしかできない私の頭を、彼の手が撫でてくれる。「息してるか」くちびるが離れたと思ったら、すぐに触れそうなところで彼が言う、「してない」「死ぬぞ」「いいよ」「よくない」、だからわたしはなんとか鼻だか口だかから吸って、ちょっと吐いてみて、「わかんない」と、ずっと泣きたい気持ちになりながら呟く。また、呼吸を塞がれてしまって、息を止めると、彼の親指が顎を押すように触れ、私は口を開いた。空気が横から入ってくる。「吸って吐けばいい」「できないよぉ……」いつまでも近くで声がしているというのも気がふれてしまいそうな一因だっていうのに、なんでそこで喋るんだ、もうやめてくれ、でも、やめないで……。押し付けられたそれがなんのつもりなのか分からなくて、鼻で浅く呼吸をする。その口づけは一瞬で、ようやくちゃんと離れてくれたので、大きく、息を吸う。吐き出しながら罵詈雑言を思い浮かべるが、結局呼吸することしかできず押し黙る。
「……すまん」
「やだ」
「もうしない」
「……してもいいけど、呼吸ができない」
「……お前は随分俺に甘いな」
「な、はあ?!」
「いや、すまない。……反省している」
「もっと反省して」
「分かった」
 抱きしめられ、優しくそう言われてしまうと、何も言い返せない。ずるい。私が障子に甘いのなんて今に始まったことではない。未だ息が詰まる感覚があり、頭がぐるぐると回る。本当に殺される前に、息の仕方くらい覚えないといけないなと思う。どこからどう吸ったり吐いたりすればいいのか、本当に分からなかった。考えれば考えるほど分からなくなっていったし、その間もずっと弄ばれていたせいでどうしようもなくなっていく。最初は照れていたくせに!
「なんじ」
「……五時半だな」
「うう……」
 呻き声を上げながら、彼の立てた膝にしがみつく。駄目だ、そろそろ帰さないと見つかってしまう。それだけは嫌だ。人にもよるが。彼の手のひらが後頭部からうなじのあたりを撫でるのを感じる。
「まだ少しは大丈夫だろう」
「うん……」
「また来る」
「次は行く……」
「……大丈夫か?」
「だいじょうぶ」
「なら、待ってる」
「うん……」
 これでは駄々をこねる子供だ。しかもせいぜい幼稚園児。顔を上げ、彼の目を見る。自分が余裕だからってマスクを外したままなのだろうか。いやいや、本当に、もうやめよう。頬の薄い皮をつねると逆に頬を撫でられてしまった。赤みが染みついてとれなくなるのではないかと思うくらい、顔はずっと熱を持っている。
「する」
「ああ」
「する!」
「分かった」
 何が嫌で、何が嬉しくて、どれが怖くてどれが恥ずかしいのか、もう何も分からない。重ねられる唇も、体を支えている腕も、一緒にいる空間も、とにかく全部が嬉しかったし、恥ずかしいけれど好きだと思った。そのうち、慣れる時もくるのだろうか。想像がつかない。
 いつまでも終わってほしくないと願いながら、私は彼とキスをする。