ユニコーンの庭

 花が好きな女でありたいと常々考えていた。

 愛しい男の姿を認め、女は微笑む。「おはようございます」。この女は、皮膚が厚くなってしまった指先を疎んでいる。それから、華奢とはいえない肩を、陶磁器とは似ても似つかない焼けて傷だらけの肌、がさついた声。それら全てを男に愛してほしいと願っている。到底無理であると理解しながらそう願うのは、ひとえに女もそうでありたいと思っているからである。とはいえ、女にとって男は完璧であり、自分に愛されるために生まれてきた存在であると言っても過言ではないほど、隙間なく愛することのできるひとであった。
 自分の近くでうまく眠ることができないというのも知っていた。それでも眠りにつく時は隣にいたかった。朝がきたことを認めたくないとでも言うように細められる瞳がうつくしい。
「すまないな。いきなり、来ておいて」
 テーブルについた男が、女の背中に声をかける。はっきりと話すことができていると思っているのだろう、寝起きだというのに澄んだ声はぎこちなく、女の手元がすこし狂う。フライパンの中を転がったソーセージが無様で、女は首を傾げるように笑んだ。
「好きでやっていることですから」
 トースターから頭を出したパンを皿に乗せ、馬鹿みたいにぐちゃぐちゃの卵と、破裂した腸詰めもそこに並べる。その皿をテーブルへ持っていこうと振り返るが、男は頭痛でもするのか、こめかみを押さえ、宝玉のような瞳を隠している。女の理解の範疇にない行動であるので、見て見ぬふりをしなければならない。皿をキッチンの作業場に戻したところでちょうどお湯が沸けたので、ペーパーフィルターに入れておいた挽き豆の上から注いでいく。どこかで聞いたメロディーを女が口ずさむと、男はゆっくりと瞼を持ち上げた。
「その歌」
「あ」
 女ははにかみ、ちらと男を見た。すぐにお湯を注ぐ作業に戻るが、男から見える背中はどこか楽しげである。どこで聞いたのだろう。ぼんやりしながら頬杖をついた男は、窓際に飾られた一輪の花を見つけ、不思議な気分になった。誰のものだか分からない墓を見ているようだった。女の刻んだ音を真似てみるもうまくいかず、橙の花から目を逸らす。
「いやね」
「なぜ」
「あなたの声があまりに綺麗で」
「きみは自分を卑下しすぎだ」
 お待たせしましたと言いながら女が差し出した朝食を受け取り、男は女の目を見た。薄幸の少女のように耳を赤くした女に、男は吹き出してしまう。
「なんです?」
「いいや。ありがとう、いただくよ」
 自分よりいくつも年上の女性であるが、可愛らしいと思うのはきっと関係性のせいだけではないだろう。
 女は、当然男の、丁寧に食事をするさまを見るのが好きだ。男が眠っている間に自身の朝食を済ませ、一度寝室に声をかけてから、パンをトースターに入れるのが、こういう時の常だった。男もそれを了解していて、疲弊しきった体を休ませる前には女に声をかけることにしている。二人にとってこの生活は永続的ではない。女は女の永遠とも言える時間を過ごしており、残念ながら男のそれと完全に交わることはないのだった。男の白く骨ばった指が口元のパン屑を拭う。
 女の目に映る男は、細く繊細な金糸と艶のある肌から作られた、精巧な人形のようだ。女は目を伏せる。また先ほどの鼻歌が漏れて、男はじっと女を見つめた。
 本当は、君が時折人を殺していることを知っているんだ。そのどれもが俺の邪魔になり得る人間であったことも。
 男は不意に心臓を掴まれたかのような心地になる。戒めの鎖以外、そこには何もないというのに。それを知ってか知らずか、女が口元に笑みを浮かべたまま瞼を開いた。男が自分を見ていたことには今気づいたという風で、再び女の口から、いやね、という言葉が落とされる。それ以上目を合わせていられず、女は視線を窓へ向けて、この場にいるのが男以外であれば分からなかったであろう一瞬、眉をひそめた。男は咀嚼しながら一度皿に視線を落とし、言葉を出すために、口の中身を飲み込んで、それから女の淹れたコーヒーを口に含んだ。
「クラピカ」
「うん?」
 女の麗しいとは言えない瞳は花を映している。小ぶりの、橙色の花。間違っても花屋などで手に入れたものではない。花に関する知識などなく、女が何を考えてその花を摘み、グラスを一つ無駄にしてまで飾っているのか、男にはさっぱり理解できなかった。男が足を組むと、衣擦れの音に反応し、女の唇からため息のようなものが漏れ出る。
「いえ、なんでも。ごめんなさい」
 男は女の、寂寞の底を知りたいと思った。女は、男にはない余裕を持っているようだった。それが凄惨な過去による真実か、男の前でだけ見せる虚勢なのかは分からなかったが、男にとって一種の安らぎであることには違いなかった。だからこそ、いくら時が経ってもこうしてふらりと現れることができるのだし、だいたい、女といない時の男は女のことなど小指の先ほども考えてはいない。これが俗に言う恋人関係なのかと問われれば、双方首を傾げるだろう。女は嬉しそうに笑うかもしれないけれど。
 男はごちそうさまと言いながら、皿を洗うべく立ち上がる。女にとってはそれも自分の仕事だったのだが、男が言い出すと聞かないとは痛いほど理解しているので、黙って微笑んだ。それから、冷めきったコーヒーを食道に流し込む。
 皿を洗う音だけが室内を満たす。
 洗い終わった食器を水切りに置き、男は両手を流水に差し出す。女は頬杖をつき、男の座っていた椅子の背もたれを眺めながら、道端の花に想いを馳せた。

「はい」
「またしばらく、ここへは来れないかもしれない」
「ええ、存じてます」
「そうか」
 水が止まる。
 男が花柄のタオルで手を拭いている間、女はずっと、花占いをする少女について夢想していた。すき、きらい、すき、きらい。女は想像上の少女を抱きしめたい気持ちでいっぱいになった。その手で抱きしめることができたなら、どれだけよかっただろう。皮肉なことに、女にそれをする資格はない。
「君は」
 男のくちびるが震える。女は顔を上げ、ようやく男を視界に入れることに成功する。男の体は以前ここを訪れた時よりも小さく見える。居ても立っても居られなくなった女は、笑みを湛えることもできず、もう随分感情を吐露していない眼球に熱が集まるのを感じながら、拳を握りしめた。
 二人の視線が交わる。男の儚さだけが正しいのだと女は理解していた。女の表情をしばらく見ていた男は、ふっと肩の力を抜き、女の頬に手を伸ばした。硬い皮膚に触れてみると幾分気持ちが楽になるのだった。ひんやりとした男の手のひらに、女は笑むことしかできない。昔のように自分の手を重ねるのは、きっと罪であると女は直感した。
「クラピカ」
「ああ」
「……体に気を付けて」
「……ありがとう」
 男の手が女から離れていく。しばらくというのがいつまでだか、女には分からない。もちろん、男にも。それでもまた会えるかもしれないという希望が女を生かしていた。どうして、黄色い花を摘まなかったのだろう。女には後悔だけが積もっていく。
 家から出ていく男を見送る女は、もう男を抱きしめることなどできないのだと悟った。人に手をかけた瞬間から、男はおろか、花すらも色あせて見える自分に、ほんとうの愛を伝える権利などない。一度女を振り向いた男は、いつかのように穏やかな笑みを見せ、片手を挙げた。
 女は家に戻り、不器用な指で花を活けているグラスを掴む。水を換えようとシンクに持っていく。茎をつまみ、全身を引っ張り上げ、グラスの水を捨てる。それを軽くゆすいで新しい水を入れ、萎びてきている花を挿す。そうして、女はまた、愛する男の真似てくれた歌を口ずさんだ。

こはる様、この度はリクエストをお送りいただき、ありがとうございます。全然甘くなりませんでした。本当に申し訳ございません。物理的接触はあります!ごめんなさい!それから、温かいお言葉非常に光栄です。不出来な管理人ですが、これからも見守っていただけますと幸いです。リクエストありがとうございました!
title by オーロラ片/200111