地獄より

 いるはずのない男の横顔を見て、ぼろぼろと泣いてしまった。わたしの感情は紛れもなく愛だった。風になびくあなたの髪は月とか街灯とかネオンを反射して、目に痛かった、金みたいな茶みたいな細糸がそのとき夜闇に染まって、もうどれがあなたなのか見分けがつかないほどだった。わたしは泣いた。ただ眼前の景色がわたしだけを苦しめるものだとわたしは気づいていた。わたしは、あなたのことが好きだった。

***

「おーい
 彼に呼ばれ、本から顔を上げる。部屋の物色を終えたらしい。ポケットに突っ込んでいない方の手で宝石のようなものを弄んでいる。
「大したものなかった。これがいくらになるかだな」
「残念。戻りましょう」
「本いいの?」
「ええ」
 どうせ家主はいないのに、私はそれを本棚に戻した。この本に価値を見出す誰かの元へ届くよう祈りながら。私にとって面白くないものは価値がない。家主の風体を見るに、大して学がないのだろう。人のことを言えるような人生ではないけれど。
 私と男は盗んだものを律儀に換金しに行き、結果的にそこにあった金品をだいたい全て奪ってしまった。そういうつもりじゃなかったのだけど、そうなったものは仕方がない。これも神の思し召しである。そうして予定より膨れ上がった現金などを持ち、私たちは私たちの家に帰った。

 私たちのトップに君臨する男は、私とは宗派が違うのだそうだ。あまり興味がなかったので、定かではない。確かに額にはいつの間にか逆十字が描かれたし、たまに着るロングコートにもそれはある。嘆かわしいことだ。かみさまみたいなものから目を逸らし、じっとペンダントを見ていると、隣に粗暴な男が腰かけた。
 信じる者は救われる。神とは人の心に宿るものである。それは自身を信じることに他ならない。
「ですから、私は救われたのです」
「また言ってらァ。テメェはバカか? おいシャル、なんとかしろよ」
「彼は悪くありません」
「ごもっとも! 俺の知ったことじゃないね。ていうか俺忙しいんだよ」
「手当り次第持ってくっからそうなんだろーが」
「神を信じないのは下民の自由ですが、罰が当たりますよ」
「テメェみてえになんならゲミンで充分だわ」
「なんだかんだに付き合ってやるんだから、フィンクスも優しいよね」
「ほっといたらそんだけベラベラ喋んだろ……」
「あはは」
「ふふ」
「なんだテメェら、気色悪ィ」
 あの男は私たちを仲間と呼ぶ。神のようでありながら、随分人間くさいことをしたがるなと思う。究極、神だけを信じていれば良いのだし、私もあの男も、他にもみんな、どうしようもない人間なので、私にとっては信じる対象ではない。仲間になったばかりだからではなく、宗派として。


 ある時、私はいつも共に仕事をする男と故郷を訪ねた。ひどい有様だと改めて思う。今ではある程度身なりを整えることもできるが、昔はみんな汚かった。臭くて痩せ細った体を引きずり、腐ったゴミを口に含んで、いつ死ぬとも分からない濃霧の中を彷徨い続けていた。朦朧としながら、皆それぞれ何かを掴もうとしていた。
さぁ、用事ってあの教会だろ?」
「そうですよ」
「なんでわざわざホームなんだよ。祈りたいだけなら他にもいっぱいあるだろ」
「ここがいいんです。もちろん、神は私の中にいますから、どこで祈ろうと関係ありませんよ。でも、ここがいいの」
「ふーん。ま、手伝ってもらったしなんでもいいけど」
 そこは教会というにはあまりに崩れていたし、本当のところ、どういう施設だったのかは知らない。崩れた屋根の隙間から差す朝日があまりにも美しくて、ああ、神がいる、と思った。醜い世界で、ただ生きようと足掻く私たちを見守るだけの、役立たずな神様が。
 そうして神を意識する以前よりこの場所が好きで、初めて本を読んだのもここだった。ここで神の存在を知り、信仰した。結果的に私は私の中に神を持つことになったので、今となっては関係がないのだけれど、所謂聖地である。
 ざくざくとなんだか分からないものを踏みながら、男と共に歩く。私たちは、正確には私たちではない。と、シャルナークだ。個の区別がつくのならそうするべきだと、私は思っていた。神を信仰しているのが私で、そうでないのがシャルナーク。女体を持って生まれたのが私で、男体を持って生まれたのがシャルナーク。でも、私たちには共通点もある。
「なんか、昔より崩れてるな」
 横から無神論者の男が言って、私はようやく顔を上げる。そうですね、と相槌を打って積み重なった瓦礫を見る。中は薄暗く、差し込む光によって埃が舞っていることが分かる。その端で倒れるように眠っている子供が見えた。
「中には入れませんね」
「残念」
「いいえ。これも神のお導きです」
「便利だな、神ってのも」
「人の心を救うのが神なのですよ。都合が良くなければ救いではない」
「確かに」
 瓦礫に膝をつき、手を組んで目を閉じる。神よ、お赦しください。隣に男がしゃがんだ気配。私は今日、人を殺すかもしれません。憐れな私は他人の命によって生きているのです。昨日までも、今日も、これからも、私は他人のものを奪って生きていきます。空気が震え、男が息を吐いたのだと分かった。目を開ける。
 祈りの後は、世界の輪郭がぼやける。私という存在だけ切り離され、無理やり駒にされていることを理解してしまう。誰かが、私で遊んでいるのだ。それが神である。空を見上げると重苦しい雲が広がっていた。
「行きましょう」
 呟くようなセリフに、男は応えない。私も視線を無視して立ち上がる。肌寒く、左腕を撫ぜる。
「別にの好きにしたらいいと思うけど」
「なんです?」
「なんでわざわざ神を通して行動すんのか分かんないな。念にも影響してるんだろ? 面倒なこと考えるね、って」
「彼もそうです」
「彼? ああ、クロロ?」
「ええ。全容は存じませんが」
「まあ、そうかもね」
「……同一視はいけませんね。すみません。けれど、必要なものなのでしょう。私や彼にとって、面倒な工程というのは」
 彼はじっと私を見つめた後、肩をすくめて歩き出した。何を馬鹿なことをとでも思われただろうか。クロロは不思議な男だが、シャルナークもまた、不可解だった。きちんと彼を認識したのはある程度言葉も話せるようになってからだったし、それから特に一緒にいようとしていたわけではない。しかしよく考えたら分かりやすいと言えるのは粗雑な男たちくらいだなと結論づけ、私も彼の後を追った。


 色々なことがあった。私たちは、大人になった。相変わらず私は神を信じていて、なんとなく一緒に暮らし始めた男は未だ神を信じていない。
 そのうち、大きな美術館を狙った作戦が実行された。私と彼は少し早く指定の場所に着いてしまって、合図を待っている間、話をした。他愛ない、くだらなくて、内容のない話だ。けれど私にとっては意味のあるものだった。いつからか、そうなってしまった。──そういえば、冷蔵庫新しくしただろ。しました。前のやつ気に入ってたのになあ。お気に入りには名前でも書いておいてください。冷蔵庫に? ってそういうとこあるなあ。私だって、サボテン捨てたこと恨んでますから。うわ、スゲー前のやつ出すなよ。
 私は笑った。また人を殺すかもしれないのに、もうずっと清々しい気分だった。彼も笑った。
「ねえ、シャルナーク」
「なーに、
「私たち、死んだら地獄行きですね」
「さあ、どうだろ。名前のついた場所に行けるだけマシじゃない?」
「天国と、地獄しかなかったら?」
「退路断つなよ。その二択なら地獄だろ」
「でも、思うんです。天国に行く方が、よっぽど罰になるんじゃないかって」
「天国はカミサマがいるんだろ? じゃはいいじゃん」
「そうでしょうか」
「なんだよ。これだけ神が神が言っておいて」
「本当に、天国には神がいるのかと」
「それ、前提から変えなきゃいけなくなるぞ」
「神は私の中に。では、天国だろうと地獄だろうと、私と共にあるということになります」
「あー、そうか」
「その前提を、崩したいのです」
「なんで?」
「分かりません」
「なんだよ」
「でも……」
 太ももに伝わるコンクリートの冷たさが一層際立った気がする。何故だか、心がざわざわと落ち着かない。ふと、隣に立つ彼を見上げる。ビルの屋上に立ち、遠くを眺める彼の姿は、一つの絵みたいだった。私たちは、私たちになれないのだ。私とこの男には、必ず別れが来る。どんな形であっても。分かっていたことなのに、鈍器で殴られたような気持ちになった。彼は私が見ているのに気づいて、いつかのように隣にしゃがんだ。目線は美術館に戻っている。
はさ」
「はい?」
「ほんとに神がいるなら、なんであの時助けてくれなかったんだって、思わないの?」
 思わない、とすぐに答えることができなかった。神とは見守るもので、こちらの運命に手出しはできない。でもそれはこの人の中では正しくないのだ。
「俺は……いつかが、俺の知らないとこで死んだら、きっと神を恨むよ」
「え……」
「馬鹿みたいだな。はは、その前に自分を恨めよって話だけどさ。神って都合がいいものなんだろ? 昔お前が言ってた……」
 苦笑する彼の横顔を見ていたら、不意に涙がこぼれた。この人とずっと離れたくないと思った。ボロと不自然に目から落ちたそれは、頬に当たってただの水になる。「なんだよ」急に泣き出した私にまた彼が笑った。なんでもないの。でも、ずっと笑っていてよ。いつか地獄に落ちる時まで。やっとの思いで口を開き、掠れた声で叫ぶ。
「わたしも」
「え? お前、化粧ボロボロになるぞ」
 ぐいと目元を拭われる。化粧なんて全部服の袖に吸い込まれてしまった。
「わたしも、うらみます」
「あはは……都合いいやつ」
「いっしょに、い、いて、ください」
「しょうがないなあ。まあ地獄までなら」
 この瞬間、確かに彼だけが私にとっての救いだった。腫れた目をあいつらにとやかく言われることなどどうでもよくて、ただ私は、心の叫びを精一杯表現していた。まるで生に気づいた赤ん坊のように。彼の手がぎこちなく頭を撫でる。馬鹿みたいなのは私もだと、嗚咽のせいで言えなかった。

***

 地獄で待っているはずの男を想う。わたしも、そこに行けるでしょうか。ねえ、シャルナーク。約束を違えるなんて、罰が当たりますよ。楽しそうに笑って、彼が何かを言う。
 
 空を仰ぐ。もちろん、わたしは神を恨んだ。それでもわたしは、ゴミ山で拾ったペンダントを首から下げ、祈りを捧げている。いつかまた、彼に笑ってもらうために。

菜々子様、この度はリクエストを送ってくださり、ありがとうございます。大変申し訳ないのですが、溺愛は私には書けません。溺愛がテーマではない上死んでいますがかなり愛されているのでこれで手を打ってください。ありがとうございました!
200111