月を砕く名
澄んだ瞳が熱を持って潤んでいる。
。
わあと怒号にも似た歓声が上がる。君が私を見ている。薄い、整いきった唇が開く。冷たさを感じるほど白い手にはお菓子の箱が握られている。どっ、どっ、どっ、ウィーン、ウィーン、じり、じり、じりり、じり、りりり……。
はっ!
意識が浮上する感覚。ただとにかく、習性として目覚まし時計の頭を叩く。夢、夢か。うめき声を上げながら一度体を丸め、それから伸びをした。眼前に少年などおらず、私は思わずため息を吐く。
職場までの道はあまりひと気がない。まだ朝も早く、単純にみな寝ているのだろう。そんな早くに働くのだから「塔」に住めばいいのにと先輩に言われてからもう半年は経つ。私に合わせて起きてくれる母に申し訳ないとは思うのだが、あそこに住むにはなにしろ金銭的な余裕がなかった。
ふと立ち止まり、聳え立つ塔を見上げる。ここは化け物の巣窟だ。
「おはよう、」
「おはようございます。眠そうですね」
「昨日の試合、録画してて……」
「ああ、夜通し」
目をぎゅっとつむったりため息を吐いたりしながら、先輩は品出しをしている。なんとかという選手のファンらしく、一緒に働いている時は割といつもこうだ。大きなあくび。
更衣室で制服に着替え、鏡を見る。私も今日はなんだか寝足りない感じがする。夢を見た気もするけれど、よく思い出せないし、そういう日が続いているような、気も。なんて、前髪をピンで止める。こんなところにずっといるからおかしくなってしまったのかもしれない。
店内のことは先輩に任せ、店頭の準備を始める。大したことではない、看板の電源を入れたり、ガラスを拭いたり。でも、こうしていると今日が始まったことがしっかり分かる。分かるというか、感じる。だから好きだ。
「それ終わったら、倉庫行ってもらっていい?」
「あ、はい」
「箱の番号メモっとくから」
「分かりました」
一通り拭き終わったところで先輩に声をかけられる。雑巾を洗っている間にリストを作ってくれるはずだ。
荷台がない。メモを持って倉庫に行き、運ぶものを入口付近に積み上げたところで気づく。誰か使っているのか、昨日の人がどこかに置きっぱなしにしたのかは分からないが、さすがにこの量を荷台なしで運ぶのは無理だと思い、とりあえず三箱持ち上げる。
最後の二箱を運んでいる最中、廊下の貼り紙が目に入る。タワーの最上階云々書いてあるが、テープのあたりが破れているのを見ると相当昔のものだろう。どこか色褪せているようにも感じる。最上階か。掃除にすら立ち入ったことのない場所に思いを馳せる。強ければ強いほど権力が得られる塔なのだ。本当の意味で、私には縁がない。皆、何を考えているのだろう。どういう人があれを目指すのだろう。
「ねえ」
「え? あ! すみません」
歩みを再開した私に前方から声がかかり、慌てて箱をずらす。
「それ前見えてんの?」
銀髪だ。
そこにいた少年に、目が釘付けになる。射抜くような目。棒付きの飴を舐めながら、こちらを見ている。どこかで……私は、この子を……。
「……何?」
「あ……す、すみません」
「いや、謝んなくてもいーけど……あんた売店の人だろ?」
「あっ」
少年は困ったように言い、上の箱をどかす。持ってくれたのだ、と気づいた時には、彼は歩き出していた。遅れて、彼の言葉に返事をしなければと思い当たる。謝らなければならないことがたくさんあって、戸惑ってしまう。
「おっこれチョコロボくんじゃん」
段ボールに貼ってあるシールを見て彼が言う。弾んだ声だ。
「好きなんですか?」
「別に、まあまあ」
「そっか……手伝ってもらっちゃってるから、もしよかったらと思ったんですけど」
「はあ?! それ先に言えよな!」
「え?! ご、ごめんなさい」
「箱ごとくれんの?」
「それはちょっと」
「ちぇっ」
何歳くらいだか分からないけれど、たぶん私よりは年下だろう。拗ねたような表情はかわいらしく、少し笑ってしまった。
そもそもそんなに遠くもない道のりが、少年のおかげで余計短く感じられた。よく考えたらどうしてあんなところにいたのだろう。店先に段ボールを置いてから思う。
「ありがとうございました。チョコロボくん、持ってきますね」
「ああ、サンキュ」
頭の後ろで手を組んだ彼から視線を外し、一度中に入る。奥にいた先輩がちらとこちらを見るが、お客さんではないと分かったのかそのまま帳簿に目を戻した。お金は後で私が払おう。
「お待たせしました」
「よっしゃ! 人助けするもんだなー」
「あはは。ほんと、助かりました。また来てくださいね」
「おー、あっやべ……じゃまたな!」
「あ、ありがとうございました!」
何か思い出したのか、彼は慌てたように走っていった。友達と試合でも観にきたのかもしれない。
それから何度か、彼はお菓子を買いにきた。私が出勤している時だけでもよく見かけるのだから、ほとんど毎日なのだろう。この間は買い占めていったらしく、発注が間に合わないと先輩がぼやいていた。そうして初対面から数日後、先輩伝いに彼の名前を知ることになる。
外のフリースペースに設置してあるベンチに座る。混んではいないがなんだか疲れたし、変な時間にお昼をとることになってしまってため息を吐く。母の持たせてくれたサンドイッチをかじると、再びため息が漏れた。よくないな。
「おねーさん」
どこか拗ねたような声に振り向く。当たり前だが、拗ねているわけではなくそういう話し方をするだけだろう。
「キルア様……」
「なんだ、試合とか興味なさそうなのに」
「え?」
「名前」
「ああ……先輩たちが教えてくれました」
「ふーん」
どうでもよさそうに(それこそ、興味がなさそうに)あくびをしながら彼は私の隣に座った。唇をとがらせ、まっすぐに前を見つめている。それから彼は特に何も言わないので食事を再開した。
「そういや、あんたは?」
不意に落ちた質問に彼を見ると、その視線が突き刺さり、少しどきっとする。見透かされたみたいで。何も、考えてはいないけれど。「な、なにが?」見ていられず手元に視線を移し、口の中のものを飲み込んでからそう聞く。
「名前」
「……です。すみません」
「え、なんで?」
「私、自分で聞いたわけじゃないので」
「はあ? いや別に、俺試合出てるし」
「あ、そっか……有名人」
「そういうこと。ね」
「はい」
二つ目をかじる。有名人か。右手で名字だけ書かれた名札を触る。なんだか変な感じだ。彼の言う通り私は試合だとかにはあまり興味がない。それでも店の近くにあるモニターから彼の名前は聞こえてくるし、お客さんの中にも彼のファンらしき人はいるので、人気があるのだろうことは分かる。その、人気者の彼とこうして並んで座って、特別でもない話をし、名前を呼ばれている。変でなくてなんだと言うんだろう。
何を言おうか考えていたらあっという間に食べ終わってしまった。パンくずを払い、ランチボックスを手提げにしまう。
「キルア様は……」
「ん?」
「どうして、ここに?」
ふと疑問がこぼれる。たぶん、私はこの子に聞きたいことがたくさんあった。目が合う。意志の強そうな瞳。温度のない、冷たくて、それでも熱を持った、瞳……。
私、この目を見たことがある。
「さあね」
彼が笑う。楽しそうに。全然、怖いものなんてないみたいに。それで私は思い出す、何度も同じ夢を見ていたことを。
「マジな話、強くなるため。ダチと来てんだ」
「ともだち……」
「そ。名前ぐらい聞いたことない? ゴンってやつ」
「ああ、押し出しの……でしたっけ」
「それ笑えるよな。ダッセー二つ名つけやがって」
彼はそのまま立ち上がり、つま先で地面を叩いた。私ももう戻らなければならないと気づき、ついでに立ち上がる。
「あんたさ」
この子には目標があるのだ、と思った。私とは何もかもが違う。その友達をきちんと信用していて、本当に仲がいいのだろう。
「今度試合観てよ。すぐ終わっちゃうだろうけど」
「分かりました」
「じゃーな」
「はい、また」
いつかのように、彼が走っていく。彼がどうして私に話しかけてくれるのかは分からない。気まぐれなのだろう、なんだか猫みたいだし。彼の背中が完全に見えなくなってから歩き出す。
夢の内容はほとんど覚えていないけれど、もう見ることはないだろうと思う。なんとなく。
title by 徒野/191126