270度の日々について

 晴天に支配された日の朝、ひどい頭痛に悩まされながらゴミを出しに行ったわたしは、歩行のおかしい鳥を発見した。階段を降りきったあたりでそれを認識し、怪我をしているらしいことを確認、ゴミを収集ボックスに投げ入れるまで観察して分かったのは、どうやらかなり衰弱しているようだということ。周りに人がいないことを確かめてからよたよたと歩く鳥に近づく。菌でも移ったらまずいのではと考えつつ、とはいえ見てしまったのだからどうにかしてやらなければという奇妙な義務感が沸き上がる。人生でわたしがその義務感に勝てたことはない。
 少し抵抗する素振りを見せたものの概ねわたしの両手の中で大人しくしていたそれを部屋に持ち帰り、ひとまず台所のシンクに置いた。どうすればいいだろう。乾かしていたコップにお湯を入れ、少しずつ鳥にかける。そうしているうちに薄汚れていたのは出血のせいだと分かった。それが腹部からのものだとも。銃弾でも埋まっているのかもしれない。なんだか慌てて持ってきてしまったが、どう考えても医者に診てもらうべきだった。手を洗ってからリビングで干していたタオルを取り、鳥の体を包んで持ち上げる。まんまるく黒い目が、私を映している。恨んでいるだろうか。恨まれたっていい、わたしはきみに生きてほしいのだ。
 動物病院の場所を調べ、ちょうどいい箱などないので抱えて、財布とケータイだけ持って家を出る。
「おっと」
 と、ドアを開けたところで、予期せぬ人物と遭遇した。思わず体を中に引っ込める。
「す、すみません。いると思わなくて」
「いや。出かけるのか」
「はい……ちょっと、駅前に」
 男の表情は逆光でよく分からない。体のいい言葉を使うとしたら友人。どこで出会ったのかよく覚えていないが、たまに連絡もなく家にくる。男は私の抱えている荷物に気づき、首を傾げた。
「それは」
「鳥です」
「怪我でも」
「はい」
「なるほど。俺もついていこう」
「えっ? いいですよ、中で待っててください」
「家主のいない家に?」
「ええと……そもそも、なんの用でしょうか」
「この間借りた本を返しに。ついでに物色」
 家主のいない家にいることの何が問題なのだろう。わたしの側からならともかく。
 それから、特に断り続ける理由もなかったので(さっさと病院に行きたかったし)とりあえずついてきてもらうことにした。歩きながらそういえばこんな早い時間に来るなんて珍しいなと思っていると、また男がタオルを覗き込む。
「珍しいな」
「え?」
 ぎくりと心臓が反応する。顔を上げると彼の目線は奥の鳥に向いていた。あまりにタイミングがよかったので思考が読まれでもしたのかと勘ぐってしまったが、どうやら鳥のことらしい。
「このあたりで見かける種類じゃない」
「そうなんですか」
「時期的に渡り鳥でもないな。猟師が誤ったのかもしれない。それにしても傷ついている野生の鳥が人里に下りてくるのはおかしな話だが」
 物知りな人だ。私もタオルに視線を移す。そもそも鳥に興味があるわけではない。だからたぶん、猫だとしてもわたしは助けようと思っただろう。ふとそれを隣の男に置き換えてみる。そして、野生の鳥が人里に下りてくるのはおかしな話だ、と思う。


 病院で診てもらうと、やはり何かが刺さったような傷だった。弾などは出てこなかったが彼の言うように猟師が間違えたのだろうとのことだ。指定の病院に預けなければならないらしかったが、引き取ってくれると言うので鳥を任せてわたしたちはそこを後にした。
「すみません、付き合ってもらっちゃって」
「いや、こっちこそ」
「でもよかったです。なんか一人で慌ててたので……」
「そうは見えなかったけど」
「そうですか?」
 信号が赤になり、もう一度、ボロボロの彼に思いを馳せる。ボロボロの彼と言うと不思議な感じがする。そもそも風邪で臥せっているところさえ想像できない。人間が、それもこの人が保護されなければならないような状態になるのは、簡単なことではないだろう。完璧なひとだ。完璧であると他人に思わせるのがとても上手な人。わたしも、理想から抜け出せないその他大勢のうちの一人で、ずっと、彼のことを完璧な人だと思っている。薄手のジャケットには皺がなく、靴にも目立った傷がない。だからそういうことなのだ、たぶん。信号が、青になる。

 家に着いて、なんとなくテレビの電源を入れてから、雑然としたテーブルをさっと片付ける。値上がりした水道代、スーパーのレシート、読みかけの本やこの間買ったばかりのCD。コーヒーでいいですかと聞くと、彼はぼんやりと何かを見つめながら、あるいは何も見つめずに、ああと答えた。視線の先では昨晩の試合結果が流れている。サッカーに興味があるようには見えなかったが、余計なことを聞く気にもなれず、わたしはキッチンに向かった。
 手を洗い、やわらかいブルーのカップと、はちみつを垂らしたような柄のものを戸棚から取り出す。あの包帯の奥に隠されているもの。夢想する世界は自由だ。あそこには第三の目があって、それを見た人は死んでしまうのかもしれない。消えない傷が彼の心を蝕み続けているのかもしれない。花の種を植えたので大切に守っているのかもしれない。人畜無害な顔で蝶のタトゥーを入れてしまったのかもしれない。泣かないで。完璧な彼が笑みをそのままに涙を流しているのが見える。わたしは、あなたに泣いてほしくないのだ。たとえそれがエゴだとしても。
 リビングで彼は本を読んでいた。近づくと顔を上げ、わたしの持つカップに視線をやる。閉じられた本にはカバーがかかっているので見えないが、わたしが貸したものだろう。
「お待たせしました」
「ありがとう」
「それ、どうでした?」
「面白かったよ。興味深かったと言うべきか。欲望というものの根深さと、それをどうにもできない人間の罪深さを正しく描いている」
「そうですね……欲望との付き合い方が下手な人がたくさん出てくるじゃないですか。主人公しかり上司しかり……」
 向かいに座り、カップに口をつける。わたしたちはしばしば本の貸し借りをし、こうして感想を語り合った。もちろん意見がすれ違う時もあったが、彼の静かな声で説かれると納得してしまうのだった。わたしと話してもつまらないだろうといつも思う。でもこの人は、本当にそう考えていたらここには来ないはずだ。そういう安心感がある。
 特別なことなど何もない日常。わたしには他にも友人がいるし、所属しているコミュニティもいくつかある。でも、彼の横顔を見ていると不思議な気分になる。ここに終わりは来るのか。わたしと、きみに。
 一度、食事に誘われた。さぞかし楽しいだろうと思った。けれどたまたま別の友人との用があったので断った。いつもそうなのだ。わたしは間が悪い。たぶん一生彼と食事に行くことはないだろう。

 彼がまた適当な本を手にこの部屋を出ようとしている。
「鳥のことだけど」
「鳥? ええ」
「何故助けたんだ?」
「なぜって……怪我をしているみたいだったから」
「それだけ?」
 真っ黒な瞳がわたしを見ている。まるで助けてはいけないみたい。わたしは改めて今朝のことを思い出す。わたしからしたら助けない理由がなかったけれど、この人は違うらしい。テレビではニュースが流れている。すこしだけ、胸のあたりがぎゅっと縮こまる。
「それだけです」
「手の届く範囲の善意は、管理しておかなければいつか身を滅ぼすぞ」
「……どういう意味です」
「そのままの意味だ。病気を移されているかもしれない、何かあればすぐ病院に行ってくれ」
「あなたの、……あなたのそれだって、善意じゃないですか」
 ドアノブに手をかけていた彼を追うように言葉を捻り出す。さらりと黒髪が流れる。怪我をしていたからとか、友達だからとか、そういうことだけでは駄目なのだろうか。彼は見慣れた顔で微笑む。
「どうかな」

 それからも、彼は時々家にやってくる。あの時助けた小鳥がどうなったのかは知らないし、知らなくても構わない。健康であれと願ってはいるけれど、それだって彼に言わせれば偽善なのだろう。だからわたしはコーヒーを淹れる。彼のために。

title by エナメル/190529