白い道をゆくがいい

「宇宙……」
 私が呟くと男はこちらへ視線を寄越した。あ、それです、と言えないあたしの指先からオレンジの細い筒が放たれて、プルタブにぶつかる。煙草の断末魔はかわいくない。完全に消えていないせいで上がる抗議の煙からカーテンへ意識をやった。ぬるい風に煽られたカーテンが網戸にぶつかって、がたつく網戸はこれまたかわいくない鳴き声を上げている。
「あした暑いね」
「そうか」
 宇宙を知った日、私はまだ他の様々なことを知らなかった。そうして夢を見る時間はたぶん終わらない。だから明日は暑い。これは予言である。暑いからって死ぬわけでもなし、要するに単なる与太話だ。でもねえ、人間が死ぬことはさすがのわたしも予知できないのだ、と、唇を湿らす。
 暑さで人が死ぬ世界に生きていた頃の私は、煙草も酒も男も女も、だから宇宙の他を知らなくて、でもそれしかないという傲慢は確かに生きる糧だった。
 ベッドに腰かけ、男の十字架を視界に入れる。繊細な黒髪。
「雨は降るのか」
「雨は降らないよ」
「なるほど」
 男は黴臭いページを捲りながら相槌を打つ。結局のところ、私の予言はこの男の興味の外なのだ。私による私のための戯言、穏やかな生ぬるい午後に相応しいそれはしかし私の意図するところには存在しない。ラジオから流れてくるポップとは言えないメロディーに、紙の擦れる音が重なる。それでもこの人は、私の予言を聞くためにここに来る。それは慰めだ。
「お前の天気予報はよく当たる」
 かんかんとうるさいカーテンを引っ張ると、外の光がソファーに座る男の足元を照らす。
「みんなそう言う。これからも」
 ベッドに横たわり、自分の指先越しに男の顔を眺める。少し遅れて男が顔を上げ、窓の方に目をやった。普段相手にしている客と比べても極端に出来のいい骨格を風が撫でる。
「新しいソファー、いるか」
「そのソファーはまだ壊れない」
 肩をすくめて男は笑みを浮かべた。
「じゃ、そうかもな」
「なんで?」
「ちょうどいいのをこないだ見つけたんだ」
「クロロはそれがあんまり好きじゃないって顔をする」
「肘掛けがね」
 ぼこ。男の肘が布を押し込む。その顔だ。自分の口から出てきた言葉をゆっくりと咀嚼する。
「そんな、片方穴が開いたくらいで。もったいないよ」
 男は笑いながら、ふたたび本を開いた。不思議な男だ。ベッドから降り、光を浴びるグラスを手にとる。溶けきってしまいそうな氷が滑って、薄い焦げ茶色の液体を鳴らした。

 何かあったの。
 なんだと思う。
 わたし、過去のことは分からない。
 答えが分からないのなら、俺は少なくとも近い将来、お前にそれを言わないんだろうな。
 私を慰めてくれる人は、私を傷つける存在になってしまった。もちろんそんなのあの男の知ったことではない。男のコーヒーを注ぎにきたのに結局煙草を吸い始めたあたしは、はっきりと闇を纏う男の、人工的な口元を思い出す。
 何年もわたしの前に現れなかったのに、あれから頻繁にここを訪れるようになった。実際、あの日のことが男によって語られることはなく、完全受動型の私では事情を把握する術がなかった(ないわけではないが、そもそも事情を知る必要はない)。
 クロロはたぶん、その時を待っている。これは単なる幼なじみの、そして予言師の勘だ。細かい灰が剥がれ落ちる。煙を吐き出し、つま先で冷蔵庫のドアをつつくと、中の瓶やらタッパーが小さく音を出した。

「クロロは宇宙なのかもしれない」
 アイスコーヒーを男の前に置く。男はページを捲る手を止め、ふと、という風に、私の顔を見た。
「お前にとっての宇宙とはなんだ」
「……それを私に聞くの」
「お前しか知らないことだ」
「なんだと思う?」
「その質問はお前にとって不利だと思うが」
 男が視線を戻した本の背表紙は影になっていて見えない。ずっと不利だ、と思う。別に今でなくても、だからこの質問でなくても、あなたとの会話は全て。
「じゃあこの話は終わり」
「そうか。残念だ」
 少しも残念そうでない顔でまた男はページを捲る。ごおお。窓の外から飛行機の音が聞こえて、ため息を吐いた。


 大した力でもないのによく金を払うものだ。私はそこらの胡散臭い占い師とは色々な意味で違う。良くも悪くもこれから起こる事実しか口に出せない。そのことを触れ回っているにも関わらず客が減らないのだから、「正しいかどうかは別として答えを出してもらえる」だとか、「如何なる事象も運命ということにできる」というのは余程ありがたいのだろう。
 裏口から店を出て、狭い空を見上げる。昼間と変わらず風は生ぬるいが少し曇っているらしい。細すぎるヒールがあまり均されていない地面に引っ掛かり、今すぐに脱いでしまいたいと思う。
「ねえ」
 凛とした女性の声が暗闇から聞こえ、立ち止まって目を凝らす。車のヘッドライトが一瞬彼女を照らし、また次の一瞬、彼女と目が合った。不規則に連続するその光は私と彼女を同じ場所に存在させてくれる。ようやく。
 わたしはこの人を知っている。
「明日、雨降るの?」
 彼女が確かめるように言った。
「雨は降らないよ」
 だから私はそう答えるしかない。彼女の目をしっかり見てしまう。上着の刺繍が時折輝いて、彼女の存在を知らせている。
「あんたは逃げた方がいい」
「どこから?」
「ここから」
「どこに?」
「それはあんたが決めな」
「じゃあ、どうして」
「……どうしてだと思う」
「見たくないものを見ることに……なる……から……」
 はっとする。彼女が私から視線を逸らし、そのまま消えた。元々そこにいなかったかのように。道路に目をやると生々しい光が私を刺す。世界から疎外されている。
 夢?
 夢には独特の浮遊感と、ただではそのことに気づかせてくれない現実味があるのだ。だからこれは夢かもしれない。そう考えると背筋が凍った。こんなにはっきりとした明晰夢、私にとってはほとんど現実だ。あれも白昼夢だった? もしかしてずっと、長い夢を見ている? 本当は……。氷の滑る音。窓に当たる重いカーテン。オレンジ色の世界。光るジャンパーの刺繍と刻まれた十字架はあたしを、あたしをどこかへ追放する。
 歩きづらくて仕方ないピンヒールを脱ぎ捨てて、夜闇を走り出す。

 初めて猫を動物として認識した、つまり餌をやる対象だと理解したのはいつだろう。私がそうしなければ目の前の奇妙な生き物は死んでしまうかもしれない、と。
 マンションの階段を駆け上がる。ずいぶん走っているはずだが膝は笑わない。いつかの雨がこびりついた手すりを掴んで体を上へ。部屋の前にたどり着いてようやく私は立ち止まる。誰も猫なんかじゃない。でもこの世界は檻だし、わたしは人の死を予言できない。震える手でドアノブを回すと本当に鍵は閉まっておらず、いつもよりすんなりと開いた。
「クロロ」
 闇の中で何かが音を立てる。カーテンだ。月明かりが部屋全体を柔らかく照らしている。
「返事をして」
 踵に開いた穴から伝線を続けるストッキングが気持ち悪い。男が振り向く。やけに鮮明に浮かび上がるその顔がやはりこれは夢なのだと言っている。

「あたしは逃げられない! 逃げるところなんてもうないの。やめてよ」
「また魘されてるのか」
「夢なのに……夢ぐらい都合のいいことが起きてよ! 誰かが死ぬ! いつも、大切な何かが!」
「起きろ、
 思えば昔から、雨が降ることを願っていた。穏やかな声は私を眠りから引き上げる。あの時私が見殺しにした猫は未だにこの部屋にいる。だから逃げられない。部屋はぱっと白く塗りつぶされて、急速に意識が奪われる。



 ひどい臭気だ。
「何を見た」
 目覚めてすぐ、深い闇が問いかける。頭がぼんやりと濁って、思考に支障が出ていた。
 ああ、宇宙はすべてをのみこんでくれない。
「昔の夢」
「……そうか」
 体を起こすとマチと目が合う。何もかも失ってしまった私にできることなどなかった。今の私が見る夢はただの夢で、馬鹿の一つ覚えのように天気予報を呟くだけの器だ。あの頃はなんでも答えることができたのに、何がどうしてこうなってしまったのだろう。もう過去のことしか分からない。
 近くに座っている民族衣装の少年がしげしげと私を観察し、クロロには聞こえないような声で呟いた。
「かわいそう」

title by 徒野/190416